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どんぐり [子育て]




大きなカシの木が何本もある公園で、まだ若い、黄緑色のどんぐりを見つけた。
今年、その木から、はじめてどんぐりが落ちたのは、台風で強い風が吹いた9月6日のことだった。
やはり青いどんぐりだった。茶色のどんぐりはよく見かけるが、これほどの数の青いどんぐりが足元に広がって落ちているのを見たことはなかった。
厳しい残暑が残る中で、それはワクワクするほど新鮮なものだった。
その時にポケットに入れて持ち帰ったどんぐりも、10日ほどで(定かではないが)、通常の茶色に変わっていった。

それから一ヶ月、カシの木の下を歩くたびに、青色ではなく、茶色のどんぐりの数が増えていて、知らぬ間に靴で踏みつぶしてしまうほどだ。
それでも、目を凝らして探していると、ごくたまに黄緑色のどんぐりが見つかることがある。

今日、また若いどんぐりを見つけて、ポッケットに入れて歩いていると、五歳位の男の子と一緒の母親に出会った。
その親子はどんぐりを集めていたようで、一見したところでは、茶色のどんぐりだけだった。
「青いどんぐり」と言って、拾ったばかりのどんぐりを、私は母親が持っていた箱に入れた。
「ありがとうございます」
そう言った母親の笑顔が素敵だった。

自然に親しむ親子の姿を見ると、私はいつも温かい気持ちになる。
小さい頃から、習い事や幼児教室に通い詰めている子どもと、どんぐり拾いを楽しむ子どもとでは、大きくなった時のしあわせの感じ方も、心の豊かさも違ってくるのではないかという気がしてならない。


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「受験の神様」と松島奈々子さん [子育て]


「塾のクラス分けテストで、下のクラスに落ちてしまうなんて、お母さん、恥ずかしくて外も歩けやしない」

このセリフは、先週の土曜日の「受験の神様」というテレビドラマの中で、中学受験の母親が言った言葉だ。

「受験の神様」は、中学受験などには興味も関心もなかった父親と小学6年の子どもが、野球が強くて名門の私立中学に合格するために、「受験の神様」と呼ばれる中学3年生の女の子を家庭教師につけて、父子ともども苦しんだり悩んだりしながら中学受験に挑戦するというストーリーになっている。

私自身はといえば、中学受験にはあまり関わりたくないと思いながら、過熱する中学受験の影響を受けてか、ここ何年かは引き受けざるを得ない状況になっていたので、好奇心も加わって、初回からこのドラマを見ていた。
今のところ、特におもしろいとか、中学受験の現状をよく描ききっているとかは思わないけれど、回を追うにしたがって、主人公の成海璃子チャンを通してテーマらしきものが見えてくるのではないかと思っている。
中学受験生に向かって、「受験の神様」が「あなたは受験がしたいの、それとも勉強がしたいの」と聞くあたりに、すでに制作者の意図が入っているような気がしないでもない。

前置きが長くなってしまったが、私には冒頭の母親のセリフが、しこりのように胸に残っている。
父親も母親も一流大学出身で、人間の価値を学歴や地位やモノやお金で判断する人たちに、こういう考え方はする人が多いからだ。
そして、多く場合、子どもは自信をなくし、傷ついている。
実をいうと、私は中学受験そのものに反対するつもりはないが、こういうタイプの中学受験の家庭に関わるのが苦手なのだ。(そうは言いながら、子どもと親の精神面でのサポートも一生懸命にやってしまうのだが…)

その子どもの性格や人柄は全く見ないで、学力テストの偏差値や、点数だけで、わが子を判断し、成績が悪いと、「恥ずかしい」とか「顔に泥をぬられた」という言葉で、子どもの悪い点ばかりをあげつらい裁く親になってしまう。

こうなったら、子どもは勉強なんて楽しいと思うはずがない。親に認められたいためにだけ、点数のためにだけ勉強をすることになってしまう。
本来、勉強というのは、いろいろなことを知ったり、自分の頭を使って考えた結果、わからないことがわかるようになる楽しい過程のはずなのに、結果だけを求められたら、おもしろさも半減してしまうだろう。

これに対して、テレビのインタビューに答えていた松島奈々子さんの言葉は好感がもてた。
「どんな子どもに育ってほしいですか」の質問に対して、「どうなってほしいかというより、大きくなったときに、どんなことを言う子になるんだろう、というほうが楽しみなんです」と言っていたからだ。

これは、母親の思いどおりに子どもをしつけるというより、子どもがもともと持っているものを大事にしたいという考え方が根底にあったからこそ、出てきた言葉だろう。
点数だけで子どもを裁いてしまう母親とは正反対の母親だ。
活躍している若い女優さんの中に、松島さんのような思いをもつ母親がいることがわかって、ちょっとうれしかった。


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子育て中のお母さんへ [子育て]

今日のNHK総合テレビの午後10時~11時半までの番組「この世界に僕たちが生きてること」は、子育て中のお母さんに是非見ていただきたい内容です。

私は一足先に見たのですが、心の底から感動しました。

子育てではよく「子どものそのままを受け入れるように」と言われますが、イマイチ具体的ではなくてわかりずらいところがあるように感じていました。

けれど、今日の番組に出てくるお母さんの子どもに対する接し方をみていれば、それがどういうことがしぜんにわかると思います。

この番組についてはいろいろ書きたいのですが、今やっと、4時半に夕食を食べて出て行く夜勤の息子の昼食と夕食の支度が終ったところで、これから1時間かけて母が入院している病院に行くので、残念ですがこれ以上は書けないのです。

番組を見た方、感想を聞かせていただけたらうれしいです。


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周囲になじめない母と子 [子育て]

滋賀県で幼稚園児2人が殺害されるという痛ましい事件が起きた。容疑者は同じ幼稚園に長女を通わせていた母親だという。

マスコミ報道によると、動機は「自分の子どもが周囲になじんでいない」ことから、不特定の園児に一方的な憎しみを募らせ、たまたまグループ通園で送っていく2人が標的になってしまったということらしい。

このようにつらく残酷な事件についてコメントを書くことはできないが、「周囲になじめない母と子」というキーワードが心にひっかかるので、そのことについてだけ書いてみたいと思う。

幼稚園や小学校の低学年の子どもが、、友だちとうまくいかない、周囲になじめないというのは、子どもよりもむしろ、母親自身が周囲になじめないことを裏側から見ているのではないかという気がする。これがエスカレートしてくると、周囲になじめない我が子と自分の姿がだぶってしまって、自分と我が子を同一視して考え、煮詰まってしまうことがあるのではないかと思う。

私にも経験がある。長女が幼稚園のときは、周囲の母親となじめず、いやな思いをした。そのときは長女の友だち関係にもかなり神経質になって、その日に子どもが友だちと遊ぶ約束をしているかどうかが私の中でかなり大きな問題になっていた。

私が周囲になじめなかったのは、たまたま私の周りにいた母親たちがそこにいない人の悪口をいう人たちだったからで、なじむ必要もなかったのだが、それはある程度自分を確立した今だから言えることであって、当時の私は、なじめない自分に対して暗い気持ちになっていた。

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勉強の出来ない子 [子育て]

 去年の10月から個別指導の進学塾で国語を教えるようになったが、時期を同じくして自宅でも、数学が特に出来ない中1の女の子の勉強を見ることになった。
2つとも、子どもが好きで、勉強が好きな私のために友だちが持って来てくれた仕事だった。

進学塾の生徒はやる気のある勉強の出来る子だったが、私の家に来る彼女が、どうして数学が極端に出来ないかというと理由は簡単だった。数学が嫌いで、勉強に慣れていないだけのことだった。進学塾の生徒が小学生なのに、勉強が生活の一部になっているのとは大違いだった。

つまり、勉強をする習慣さえつけば、ほとんどの子どもは出来るようになっていくtということだ。
ところが、これが結構むずかしくて、当の子どもはこのまま勉強しなくても高校ぐらいは受かるだろうと甘く考えているし、そのことで悩むのはむしろ母親の方ということになってしまう。
勉強が出来ない劣等感から、子ども自身も、自己肯定感の少ない子どもになってしまうのも確かなことなのだが……。

多くの場合、出来ない子に向かっては、親は、「勉強しなさい」とか「今のままではどうなっても知らないから」などと責めるしかないから、そうでなくても勉強が嫌いで、勉強に慣れていない子は、何をどう勉強してよいかわからず、ますます勉強が嫌いになってしまう。
他人事ではなく、私も勉強をめぐっての親子喧嘩は数えられないくらいしてきた。

何人かの問題をもつ子どもと関わってはきたものの、私に彼女の成績を上げる自信があるわけでもなく、まして、週に1度位、勉強を見たところで、割り算や分数さえあやふやな子が急に出来るようになるとも思えなかった。

大切なのは、やはり勉強に慣れさせることだった。そこで、1週間分の宿題をまとめて出さずに、FAXで毎日宿題を送るようにした。

送ってこない時は携帯で催促のメールを打ち、「わかりません」と送ってきた時には解き方を書いて、再度やってもらう。

要するに、教える側の私が手を抜かないということだ。
自分に寄り添って勉強を見てくれる相手がいれば、子どもは必ずやる気を出すし、その時の子どもの変わりようには目を見張るものがある。

まだまだ始まったばかりだが、そのうち彼女も自分自身の可能性に気づくに違いない。

ところで、勉強の出来る子と出来ない子の、たった2人の生徒をもっただけで、私の日常はかなり忙しくなった。勉強は好きでも、それほど得意ではない私は収入以上の教材を買いまくり、猛勉強(?)をしなければならなくなったからだ。
母の介護もあるのだが、ブログがあまり書けなくなったのもそのためだ。

早く、私も勉強が出来るようになりたいなあ。それこそ、努力あるのみだ。子どもにわかってもらいたいことも、本当のところはそれに尽きるのだが。


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じょうぶな頭とかしこい体になるために [子育て]

タイトルの言葉は、五味太郎さんの本のタイトルにもなっているのだが、このタイトルを読んでちょっと違うんじゃないの、と思われた方も多いのではないかと思う。一般的には、「かしこい頭とじょうぶな体」をもつ子がよい子と思われているからだ。

これに対して、五味さんは本の中で次のように書いている。
大人の言うことは素直にきいて、決められたことはきちんと守り、出された問題にはうまく答え、与えられた仕事はだまってやる。決してさぼったり、ごまかしたりしない。それが「かしこい頭とじょうぶな体」のよい子です。
言われたことの意味を確かめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題を解き、自分のために楽しい仕事を探し出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐにさぼる。これが「じょうぶな頭とかしこい体」を持った、これもまたよい子です。

振り返ってみると、私はタイトルのような子育てはできなかったけれど、今、子育て真っ最中のお母さんたちには、このような子育てを心がけてほしいと思う。そうすれば、子どももしあわせになれるし、親も将来にわたって子どもについて余計な心配をしなくてもすむのではないかと思う。
子育てに目的というものがあるとしたら、親のいうことをよく聞く子を育てることでも、いい学校に入っていい会社に就職してお金持ちにさせることでもなくて、子どもが将来、好きな道を見つけて、自立して生活していく力をつけることだと思う。そして、「この子は何があっても大丈夫。一人でも生きていける」とある時点で思えたら、親にとってこんなにうれしいことはないのではないかと思う。

それでは、どういう子育てをしたら、そういう子が育つかだが、その答えを、私は2、3日前に読んだ本の中に発見した。
椎名誠の「岳物語」だ。この本は、椎名さんの子どもの岳クンが幼稚園から中学に入学するまでを、親と子、さらには周囲のステキな大人たちとのふれあいを通して描いているのだが、子育て真っ最中のお母さん方には大いに参考になると思う。もっとも、椎名さんは、この物語は、子育てや教育をベースにしたものではなくて、親ばかをベースにした、男たちの友情物語のつもりで書いたと言っておられるので、この本を子育てのお手本として読む人がいたとしたら、あせってしまわれるかもしれないが……。

第一、椎名さんだからできたことで、それを私たちがまねたところで、うまくいく保証はない。それでもやはり、椎名さんに育てられた岳クンは、きっと好きな道を見つけて自立しているか、そうでないにしても「じょうぶな頭とかしこい体」をもった若者になっていることと思う。

たった一箇所(ではなかったかもしれないが)、子育てについてふれているところがあった。
それは以下のようなようなものだった。
「私と妻は岳に対していまのところ何も教育方針らしいもの持っていないけれど、たったひとつ、(自分でできることは自分でやるように)ということをなんとなく日常生活の中で言ってきていた。教育というようなことをしたとしたらせいぜいこれだけだったようなのだ。


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女王の教室と今の政治 [子育て]

「女王の教室」の真矢先生を見ていて、それが今の世の中や政治の方向性を現しているという気がしてならない。真矢先生が今の世の中の論理や政治で、主人公の和美ちゃんを含む子どもたちが私たち庶民と言えるのではないだろうか。

今回の選挙は郵政民営化を問うもので、その是非については何とも言えないが、一つだけわかっていることは、これまでよりさらに競争社会になって弱いものが切り捨てられていくということだろう。すでに、郵便局では、成績の振るわない職員ややる気のない職員がやめていったり、リストラされていると聞く。民間企業ではかなり前から同様のことが行われているのだから、当然といえば当然なのかもしれないが……。

けれど、これを子育てをする母親の立場から考えてみると、今よりさらに競争社会が進んでいくと、親は子どもが負け組みになることより勝ち組になることを望むから、「できること」「させること」を要求するようになる。その結果、今以上に、「させる育児」の面が強くなっていくだろう。さらに、夫の労働時間も長くなって、夫の子育てに関わる時間も減っていくから、そうでなくても子育てに悩む母親は多いのに、さらにその度合いが強くなっていくだろう。そうなったら、高齢社会にますます拍車がかかり、出生率は下がる一方だと思うのだが……。

前回では、和美ちゃんは自分の意志で私立中学を受験しないことに決めた。そうしたら、この先、勝ち組ではなく負け組みになっていくのだろうか。きっと、和美ちゃんはそんなこと考えてもいないだろう。勝つことがいいことで負けることが悪いこと、勝つことがしあわせで、負けることが不幸なことなんて、本当は誰にもわからないのだから。
さらに、真矢先生と大筋において同じ意見の母親たちに、子どもたちがきちんと自分の気持ちを伝えて、母親たちを説得する場面があった。そのとき、真矢先生が子どもたちを止めずに、一人ひとり自分の意見を最後まで言わせているところも、このドラマの興味を引くところだ(考えてみれば、真矢先生はいつも高圧的に子どもたちを押さえつけながらも、子どもたちの意見はきちんと聞いていたのだ)。

世の中も政治も強者の論理で動いている。それでいいのだろうか。私たち庶民も、真矢先生に異を唱え、行動する和美ちゃんたちのように、真剣に考え行動しなければならないのではないかと思う。膨大な国の借金を、次代を担う子どもたちに重く背負わせることがないように、そして民営化によって本当に民にお金が回って経済が活性化し、税金の無駄遣いがなくなるのかも見極めていかなければならないと思う。


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育児中の母親のうつ [子育て]

NHKの福祉の番組で、「母親のうつ」をとりあげ、子育てに悩む母親からの質問を受けつけていた。精神科医が回答者になって、「完璧を求めないこと」「出来ないことを周囲に伝えて協力を得ること」とアドバイスをしていた。

うつ病ににはならないまでも、孤立しがちな子育てで、悩む母親は多いのではないかと思う。誰にも自分の悩みや、つらさを訴えることができないで、それでも子どもからは逃げられないで、自分はこの子の母親なんだから、いい母親にならなければいけないんだ、と思っているお母さんたちはどんなにつらいかと思う。

だから、私も上記の精神科医ではないが、「いいお母さんになんか、ならなくてもいいのに」と思ってしまう。大体、いい母親ってどんな母親を指していうのだろう。私はいい母親というのは、「うちのママって、変だよ」とか「しょうがない。母親だな」」と、子どもに思わることがあっても、そんなことに関係
なく、子どもが母親が好きで、とりあえず、子どもが母親に反抗できたり、言うことをきかなかったりしたら、それはいい母親ということになると思う。それと、自分にウソをつかないこと、自分の気持ちに素直になることを練習するのも有効だと思う。

とはいえ、その反抗の程度が度を越えていたり、全く言うことを聞いてくれなかったら、かわいいとは思えず、憎らしくなってしまうことだってあるだろう。そんなときは、「かわいくない」とか「どうして、この子はこうなんだろう」と思っても、それはそれでいいと思う。それを無理にかわいいと思う必要はないと思う。それが自分の気持ちに素直になるということだから。

第一、子どもは本能的に大人のウソを見破るから、ウソで塗り固めたり、取り繕うことはしないほうが賢明だ。
私が関わった母親で、夫のことを「すごく尊敬している」と言いながら、本心はまるで違う人がいた。彼女の夫は地位はあっても、ただ見栄っ張りの暴君で、私から見れば何と言う人なんだろうと思うような人だった。ところが、子どもたち(その中でも性格がいい子)は、彼女が父親のことをそういうもんだから、父親から出来が悪いと非難されると、父親に反抗することもできずに自分ばかりを責めるようになった。こういう場合、母親が子どもの前で、父親のことを悪し様にいうのもどうかと思うが、少なくても「尊敬している」のような、ウソはつかないほうがいいと思う。むしろ、「お母さんも、お父さんのこういうところは嫌いなんだな」と感じさせてしまっても、それはそれで仕方がないかなと思う。
ただ、この家庭の場合は、会社でつらい立場にいて、家で威張り散らさなければやっていけなかった夫のことを、この母親が理解して、夫にやさしい目を向けるようになったことで、夫が変わっていった。

もう一つ、、うつの母親にとって、自分が出来ないこと、イヤだと思うことをイヤだと、自分の中ではっきりさせることも大切だと思う。「出来ない」ことを認めてしまうと、結構楽になることもあるからだ。そうでなくても、自分はダメだとか、何も出来ないと思っているので、むずかしいとは思うが、そうしてほしいと心から願っている。そうして、少しでも気持ちを軽くしてほしいと。


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女王の教室 [子育て]

日テレの「女王の教室」で、、天海祐希演じる阿久津先生の「冷酷な鬼教師」に対して賛否両論、番組のホームページに1ヶ月で3万5千件の書き込みがあったと、今日の夕刊を見て知った。

私もこのドラマは注目して見ていた。まず、初回近くに、阿久津先生が生徒たちに、「人もうらやむような幸せな暮らしが出来る人はたった6%よ」と教え、さらに「特権階級の人があなたたちに何を望んでいるか。今のままずっーと愚かでいてくれればいいの。世の中の不公平なんかに気づかず、会社に入れば上司の言うことを聞いて、戦争が始まったら真っ先に危険なところに行ってくれればいいいの」と強い口調で言った言葉が、事実を突いていると思ったからだ。

政治家だって、役所の上層部だって、多大な利益を収めている企業の経営者だって、「国民や、都民や区民や、社員の言うことに耳を傾けて」などと、調子の言いことを言っているが、自分たちに都合のいい意見はともかくとして、都合の悪い意見なんて、言ってほしくもないし、聞く気もないことは、随所に垣間見られるからである。庶民のことを本当に考えているなら、社会保険庁のあきれるほどの税金の無駄遣いも、道路公団の談合や天下りも、売らんがためだけの商品だって存在しないはずだからだ。

だからこそ、私は子どもたちがいろいろ勉強して、賢い大人になることが必要だと思う。特権階級の中でも、特によこしまな人やずるい人がどんなに悪いことをしても、「それはおかしい」「変だ」とも気づかないような、そんな愚かな大人ばかりになったら、それこそ彼らの思う壷になってしまう。

権力側の人間や威張っている人が大嫌いなので、怒ってしまって、書きたいことが横道にそれてしまったが、書きたいことは別のことだった。ドラマを見て思ったのは、私たち親も程度の差こそあれ、阿久津先生と同じことを子どもにしているのではないかと感じたことだ。なぜかといえば、阿久津先生が子どもに要求しているのは、「すること、出来ること、速さを求めること」であって、そこでは気持ちが置き去りにされているからだ。「さっさとしなさい」「どうして、出来ないの」「馬鹿ね」「ぐずでのろまなんだから」などという言葉を、私たち親は、無意識のうちに使っているのではないだろうか。

ここに登場する、もう一人の主人公の女の子は、自分の気持ちに素直な、本当にいい子だと思うが、それがわかるのは見ている視聴者であって、ドラマ上の親はこの子のよさがわかってない。
このように、表面的にはわかりにくい、子どものいいところを親は見過ごしていることが、案外多いのではないだろうか。

私がこのドラマで一番興味をもったのは、このドラマを作った制作者側の意図であったが、今日の新聞には「彼女を乗り越えるとき、子どもたちは社会で生きるための大切なものを学ぶ」とあったが、ドラマとはいえ、ここまでされて乗り越えられる子がどれだけいるだろう、乗り越えられない子はダメな子になってしまうのだろうか、と思った。

とても聡明な天海祐希さんが演じているのだし、毎回、最後にはがらっと変った踊りの場面が出てくるから、今の鬼教師ぶりも何らかの意図のもとにやっているのだと思うが、あんまりこれが続くと、ちょっとな、と思う。


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問題をもつ子 [子育て]

子どもに関わる仕事をするには、子どものことが好きでないとできない部分もあるが、同時に幅広い知識を得たり、経験を積んだりしながら、たえず自分を見つめ直したり、振り返ってみることが必要になってくる。
今日は、これまであちらこちらで触れてきた講演や本、新聞記事のなかでも、私が最も共感できた「日本子どもソーシャルワーク協会」の寺出壽美子理事長の「子どもたちは、何故こもるのか」というタイトルの文から一部を抜粋して紹介したいと思う。私自身の子育てを振り返って自戒をこめながら……。

不登校・ひきこもり、摂食障害、薬物し癖、窃盗、傷害、恐喝、など等、彼らが表出する行動はさまざまですが、その根底にあるものは、共通なのだと思います。それは彼らが、自ら生まれてきたことの意味を見出せないでいるということだと思います。つまり、自分は、このままの自分でいいんだ、今ある自分のままで生きていっていいんだ、今のままの自分で、親に愛されているんだ、と、自信をもって実感できないでいるということです。
それでは、今ある自分を肯定的に受けとめられない状態は、どのようなプロセスの中で培われてきてしまったのでしょうか。それは、ひとことで語るなら、主たる養育者(多くは父母)が日々の生活の中で、子どもを否定したり、無視したり、いずれにしても家庭の中で、自分はいなくてもいい存在、必要とされない存在、邪魔な存在、他の兄弟と較べて可愛くない存在と、親に思われているのではないかと、子どもが実感してきたということです。

このような書き方をしますと、こんなひどい親は、滅多にいるものではないと、感じられるかもしれませんが、「あんたは、いつも、のろくて、どんくさい」、「こんなに出来の悪い子はうちの子ではない」、「言うことが聞けないなら、出て行きなさい」、「あんたなんか、産まれなければよかった」、「あなたのせいで、父さんと、いつも喧嘩になる」、と、親は日常的に無自覚のうちに、子どもに対して、否定的なことばを投げかけています。
子どもが子どもとして、1日いちにちを、生き生きと生活できること、無理なく楽な気持ちで生活できることは最低限の権利なのですが、この最低限の権利が、実は奪われているのが現実です。

身体的虐待ゆえに、殺してしまった極悪非道な父親・母親と、テレビのニュースで流されることがありますが、身体的虐待だけが虐待なのではなく、日々の生活の中で不適切な対応や、子どもの発達を保障しない養育は、すべて広い意味での「虐待」なのだと思います。「○○校に合格したら、愛するよ」「○○を習い続けるいい子は、愛するよ」、「学校に行ってくれるなら、愛するよ」と、親の提示した条件をクリアーするなら、我が子として認めようという立場は、広い意味での「虐待」、すなわち、不適切な関わりです。
従って、学校に行く・行かない、仕事に就く・就かない、のレベルでみるのではなく、今の子どものそのままの状態を、愛せるかどうかということです。すなわち、たとえ、不登校・ひきこもりの状態にあったとしても、そのままの状態の我が子を、いとおしく思えるかどうか、不登校・ひきこもりを、受け入れられるかどうか、なのだと思います。(以下、省略)


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