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周囲になじめない母と子 [子育て]

滋賀県で幼稚園児2人が殺害されるという痛ましい事件が起きた。容疑者は同じ幼稚園に長女を通わせていた母親だという。

マスコミ報道によると、動機は「自分の子どもが周囲になじんでいない」ことから、不特定の園児に一方的な憎しみを募らせ、たまたまグループ通園で送っていく2人が標的になってしまったということらしい。

このようにつらく残酷な事件についてコメントを書くことはできないが、「周囲になじめない母と子」というキーワードが心にひっかかるので、そのことについてだけ書いてみたいと思う。

幼稚園や小学校の低学年の子どもが、、友だちとうまくいかない、周囲になじめないというのは、子どもよりもむしろ、母親自身が周囲になじめないことを裏側から見ているのではないかという気がする。これがエスカレートしてくると、周囲になじめない我が子と自分の姿がだぶってしまって、自分と我が子を同一視して考え、煮詰まってしまうことがあるのではないかと思う。

私にも経験がある。長女が幼稚園のときは、周囲の母親となじめず、いやな思いをした。そのときは長女の友だち関係にもかなり神経質になって、その日に子どもが友だちと遊ぶ約束をしているかどうかが私の中でかなり大きな問題になっていた。

私が周囲になじめなかったのは、たまたま私の周りにいた母親たちがそこにいない人の悪口をいう人たちだったからで、なじむ必要もなかったのだが、それはある程度自分を確立した今だから言えることであって、当時の私は、なじめない自分に対して暗い気持ちになっていた。

「周囲になじめない母と子」を的確に描写している小説に角田光代さんの「対岸の彼女」という作品がある。以下、本文中から少し抜粋してみたいと思う。

(「公園で主人公の小夜子が娘のあかりを目の端で観察している場面」……だれかと遊びたいと思っても、無邪気に仲間に入っていくことができず、片隅でいじいじと声をかけられるのを待っている。(省略)あかりの目線を追っているつもりが、いつのまにか自分の目線になっている。公園のママ仲間になじむことができなかった自分の。そう気づくたび、あかりに対して申し訳ない気持ちになる。だれかれに屈託なく話しかけて、派閥など気づかないふりのできる、マイペースで陽気な母親だったら、あかりもそんな子どもになるだろうにと思ってしまうのだ。)

(「小夜子はもう1人の主人公である葵に、公園を巡り歩いて、母親友達のできない自分を責め、同い年の子と仲良くできないあかりに苛立っていた日々のことをを打ち明ける。それに対する葵の返事」
「(省略)けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれるような何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」

(「葵の言葉を受けて」(省略)なきわめくあかりを保育士さんに預け、まだ友達ができないのかとじりじり焦り、迎えにいったあかりから友達の名がひとり出ないことにまた落胆するのは、何か間違っているのではないか……葵を見つめたまま、小夜子は考えた。

以上のように小説の題材に扱われるくらいだから、母親同士が「なじめない」ということを話題にしないだけで、このことで悩んでいる母親は結構いるのではないか、と私は思う。

葵が言っているように、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うこと、子育て以外に自分が熱中できる何かを探すことも有効だと思う。

私の場合は、それがコピーライターの通信教育だったのかもしれない。子育ての傍ら、期限付きの課題提出にかなりの情熱を注ぎ、気持ちを分散させることができたからだ。

小夜子は自分が選んだ掃除の仕事を一生懸命やっているうちに、あかりに対しても気持ちが変化し、おおらかになっていきます。そうすると、あかりも変わっていきます。


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