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夢の途中で [私のこと]

あけましておめでとうございます。
ブログの更新もままならないのに、それなりに読んでくださる方がいて、ありがたく思っています。

年の初めに近況報告をさせていただきます。
去年の11月より、実家の母を自宅に引き取り、介護の生活が始まりました。
母の腰の持病が悪化して、一緒に住んでいる弟夫婦では対応できない部分が出てきたので、我が家に呼ぶことにしたのです。

当初は、介護だけでなく、うつ病の母とうまくやっていけるかどうか不安だったのですが、案ずるより生むが易しで、遠くから暗い母の顔を思い浮かべて心配しているより、穏やかな母の顔を目の前で見ているほうが、はるかに楽だと思いました。
母が私の家にいるのは、一応、夏頃までの予定で、その先のことはまだわかりませんが、出来る限りの親孝行はしたいと思っています。

「夢見る団塊主婦」としての、私の夢は少しずつですが叶いつつあります。
自宅で始めた塾に、紹介ではなく、ホームページを見て生徒が来るようになったのです。
元気や自信のなかった生徒や、子どものことで悩んでいたお母さん方が、塾に来るようになって、明るい顔を見せてくれるようになると、塾を始めて本当によかったなと思います。

けれど、これで夢が実現したわけではないし、この先も生徒が来てくれる保証もありません。
それでも、世間的には評価されにくい子どもたちの味方になってサポートすることをライフワークとして、生徒が元気になっていく様子を見ることを私自身の喜びにして、これから先もずっと夢を見続けたいと思っています。


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山村留学先の放映時間変更のお知らせ [テレビ]

先ほどアップした記事について、番組時間の変更の知らせが、息子の携帯メールに届きましたので、取り急ぎ、ご報告させていただきます。

番組名  「たけしの日本教育白書2007直前スペシャル」
放送局 フジテレビ
放送時間帯 16:30分~17:30分の間の15分間

振り回してしまって、申し訳ありませんでした。
よろしくお願いします。


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山村留学先のご紹介 [テレビ]

今日の今日ということで、突然ですが、息子が1年間過ごさせてもらって本当によかったと思っている、長野の山村留学先、NPO「グリーンウッド」の“山賊キャンプ”がテレビで紹介されます。

今日27日(土)フジテレビ、19:00~24:00に放映される「たけしの日本教育白書2007」という番組で、“山賊キャンプ”の様子は、19:00~21:00の間で放送される予定だそうです。

約15分間ということなので、その良さがどのくらい伝わるかわかりませんが、スタッフや子どもたち、またその親たちが、20年以上の歳月をかけて、地域と溶け合いながら、地道に取り組んできた活動です。

グリーンウッド(=ダイダラボッチ)が有名になっても、スタッフや子どもたちはいつもと変わらずに、淡々と日々の生活を続けていくと思いますが、その存在をできるだけたくさんの方たちに知ってもらいたいというのが、そこから巣立っていった卒業生や親たちの共通の願いにもなっています。

山村留学に興味・関心のある方、また子育てや教育について考えている方には、ぜひ、見ていただきたいと思います。
よろしくお願いします。


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どんぐり [子育て]




大きなカシの木が何本もある公園で、まだ若い、黄緑色のどんぐりを見つけた。
今年、その木から、はじめてどんぐりが落ちたのは、台風で強い風が吹いた9月6日のことだった。
やはり青いどんぐりだった。茶色のどんぐりはよく見かけるが、これほどの数の青いどんぐりが足元に広がって落ちているのを見たことはなかった。
厳しい残暑が残る中で、それはワクワクするほど新鮮なものだった。
その時にポケットに入れて持ち帰ったどんぐりも、10日ほどで(定かではないが)、通常の茶色に変わっていった。

それから一ヶ月、カシの木の下を歩くたびに、青色ではなく、茶色のどんぐりの数が増えていて、知らぬ間に靴で踏みつぶしてしまうほどだ。
それでも、目を凝らして探していると、ごくたまに黄緑色のどんぐりが見つかることがある。

今日、また若いどんぐりを見つけて、ポッケットに入れて歩いていると、五歳位の男の子と一緒の母親に出会った。
その親子はどんぐりを集めていたようで、一見したところでは、茶色のどんぐりだけだった。
「青いどんぐり」と言って、拾ったばかりのどんぐりを、私は母親が持っていた箱に入れた。
「ありがとうございます」
そう言った母親の笑顔が素敵だった。

自然に親しむ親子の姿を見ると、私はいつも温かい気持ちになる。
小さい頃から、習い事や幼児教室に通い詰めている子どもと、どんぐり拾いを楽しむ子どもとでは、大きくなった時のしあわせの感じ方も、心の豊かさも違ってくるのではないかという気がしてならない。


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月下美人 [私の楽しみ]

今年は9月24日に、昨年は9月23日に、「月下美人」が咲きました。
何年も前から、わが家には月下美人があったのですが、咲いたのは去年がはじめてでした。
下を向いていたつぼみが次第に膨らみ、上を向いて咲いたその瞬間には、神々しいと思えるほどのその美しさに感動して、言葉も出ませんでした。
たった数時間の花の命だから、その一点に全てを集中して、こんなに見事な花を咲かせるのかと思いました。
夜の8時頃に咲いて、夜中の12時頃には閉じてしまいましたが、その間飽きることなく、花を眺めていました。
透き通るような花の白さに心を奪われて、別世界にいるような気分になりました。秋分の夜の静かな静かなひとときでした。

(写真は去年のものです。今年は実家の引っ越しの手伝いで出かけていたため、花が咲く瞬間を見ることはできませんでした。けれど、玄関を開けた途端、月下美人の花が私の目に飛び込んできて、しばらく花と共に過ごしました。)


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夏の終わり [介護日記]

東京都の道路拡張工事にひっかかり、立ち退きを迫られていた実家の取り壊しが決まった。
それに伴う仮住まいへの引っ越しがお彼岸の日の23日、24日で終わった。
この日を迎えるまでの1ヶ月間は、私も足繁く実家に通い、母の荷物整理に追われた。

腰の持病に、うつ病(現在はかなりよくなってきてはいるが)を患っている84歳の母が、この引っ越しをうまく乗り切れるかが、ここ何ヶ月かの私の一番の心配事だったが、母は何とか持ちこたえてくれた。

ここに辿りつくまでに、私も少なからず大変な思いをした。2世代住宅の1階に住んでいた母の荷物整理は全面的に私が引き受けていたので、ダンボール詰めや廃棄処分品、コンテナに運ぶ荷物の仕分けなどをやったのだが、肉体的な疲れよりも精神的なストレスが大きかった。

母が、捨てるものと、残しておくものの決断がなかなかつかないのは仕方がないとして、2階に住む弟夫婦(特にお嫁さん)への気の使い方が、私のストレスの最たるものだった。それは、特にゴミ問題に顕著に現れた。
引っ越しだから、燃えるゴミ、燃えないゴミをはじめとして、粗大ゴミやリサイクル品など、いろいろ出てくるのは当たり前なのに、その処分をお嫁さんに頼むのは気が引けると言ったからだ。

仕方がないので、燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源回収に出す本や箱などのダンボール類、ペットポトル類、空き缶など等は、何回かの休日を利用して、夫に頼んで車で自宅まで運んでもらった。
賞味期限を過ぎたサラダ油やしょうゆの入ったペットボトル、油ポットに入ったままの古い油、中身が入った缶詰類も流しの下や、冷蔵庫からごっそり出てきた。全て、棄てることをお嫁さんに頼めないまま、手付かずになっていた食料品だった。
その量は半端なものではなく、それを分類して処分するにはかなりの時間を要した。
それに私が費やす労力もさることながら、母とお嫁さんのそうした関係に、いらいらさせられたのも事実だった。

引っ越しの当日、取り壊される家に、ねぎらいの意味も込めてオレンジのバラの花を2輪、飾ってきた。
今から45年前、夫(私にとって父)を交通事故で亡くした母が、実家から土地を譲り受けて建てた家だった。
家が出来る前に、1年ばかり、母の実家が所有していた物置小屋のような家に住んでいたこともあったのだが、母が建てたその家で、私たち親子(母と私と2人の弟)の、事実上の母子生活が始まったのだ。
父が亡くなるまでは恵まれた生活をしていた私たちは、それからは母の必死の働きで、学校に行き、就職をし、それぞれの家庭を持つことができた。
一家の大黒柱として家計を支えてくれたのはもちろんのこと、母からは有り余るほどの愛情ももらっていた。

45年前に建てたその家は、2階を人に貸して家賃収入を得ていたのだが、その後は改築して私や次男一家の盆暮れの宿泊場所になり、さらに4年前、母と同居することになった次男一家のために大幅な増改築が行われた。
それもこれも、母がしっかりと、堅実に生きてきたからこそ実現したものだった。
やさしくて、きれいで、賢い、私にとっては自慢の母だった。
そんな母との思い出がいっぱい詰まった家が、間もなくなくなってしまう。

今の母は体だけでなく気持ちもすっかり弱くなってしまっていて、今回の引っ越しについては不安ばかりが先に立ってしまい、なすすべもなくオロオロするばかりだった。
役に立たない自分に自己嫌悪も感じていたが、客観的に見ても、若い人にとっても大変な引っ越しをよく乗り切ったと思う。
不安ばかり、愚痴ばかり、不満ばかりを口にするので、引っ越しの最中は、私も、ついついきつい言葉を投げかけてしまったが、心の中では母がかわいそうでたまらなかった。
今までのように2世代住宅ではなく、台所も一つの仮住まいの生活では、これまで以上にお嫁さんに気を遣い、小さくなって生活することは目に見えていたからだ。
慣れない家での日中の一人暮らしも、どんなに心細く感じることだろう。

夏の終わりに、この週明けにも、母の家は取り壊されることになっている。
それと同時に、母と私が共に歩んできた一つの時代が終わったような気がして、家を後にするときには、感傷的な気分になってしまった。

それでも、これからも私は仮住まいの家にも通い続けて、母を支え、つかの間でもいいから母の笑顔を見たいと思っている。
「お母さんのことは、私が守るから、心配しないで」と心に誓いながら、母に会えなくなる日が訪れないことを願いながら。


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映画「ボルベール」 [私の楽しみ]

朝のラジオ番組で、新宿初のシネマコンプレックス「新宿バルト9プレス」のことを知って、映画そのものより、映画館に行くことが目的で、新宿まで出かけた。
そこで、たまたま見た作品が「ボルベール」だった。その映画が母、娘、孫娘3代の女性たちの葛藤と和解を描いた前評判の高い作品であることまでは知っていたが、それほど期待はしていなかった。

ところが、映画を見てから1週間近く経った今でも、まだその余韻が残っていて、自分自身のメモとしても、書いておきたいと思った。この先も、印象に残る映画として心に刻まれるに違いないと思ったからだ。
それほどに、質が高くて、見応えのある作品だった。

スペイン映画ということだったが、何と言っても、主役のライムンダを演じるペネロペ・クルスという女優の美しさが際立っていた。大きく見開かれた黒い目とメリハリのある美しい肢体でエネルギッシュに動き、明るくしたたかに生きる女性を好演していて、圧倒的な存在感を見せていた。

場面は墓場の掃除から始まるのだが、そこに居合わせた人々がお互いに交わす「チュ、チュ」というキスの音が、耳障りなほど大きくて、見ていて落ち着かない気分になった。親しくても、親しくなくても、スペイン人はみんな、あんなに大きな音をたてて、挨拶代わりのキスをするのだろうかと思った。もし、あれをそのまま日本でやったら、人間関係が変わるのかなどと、余計なことを考えたりもした。

展開が全く読めぬまま見ていると、次の場面では、病気の伯母を見舞ったライムンダが、娘のパウラと共に自宅に戻ってくると、夫から会社をクビになったことを聞かされる。その夫の前で、パウラは足を広げたままテレビを見ている。そんな娘に対して、夫が卑猥な視線を向け、ライムンダは、「足を閉じなさい」と注意する。同じ夜、ライムンダが夫の求めを拒否すると、夫は「チェッ」と舌打ちした。
この時点では、このイヤな関係で話が進んでいく、あまり見たくない映画になるのかと思った。

予想は見事に裏切られた。たったこれだけの伏せんの後で、夫がパウラに関係を迫り、抵抗したパウラが夫を殺してしまうのだ。パウラが夫の子どもではなかったことも明らかにされる。

父親に犯されそうになった娘は、父親を殺し、母親は娘を守るために、何とかこの事実を他人に知られず、死体を処理し、死体の捨て場所についても考えを巡らす。これだけでも、映画1本の内容としては十分なのに、作り手はこの部分には全く重きをおいてなかった。
次はどうなるのかといストーリよりも、困難な状況に直面した人間がどう動くか、どう生きるかのほうに焦点を合わせているように見えた。

死体を大きなトランクに入れて冷凍庫に隠し終わったところに、映画のロケ隊がやって来る。ライムンダは報酬がほしくて、冷凍庫の死体のことはひとまず置いておいて、彼らの食事作りを一手に引き受ける。隣近所を巻き込みながら、明るくたくましく働く彼女は輝いていて、殺人事件の渦中にいる人間にはとても思えなかった。
心の内側は限りなく重く、深刻なはずなのに、ライムンダの突き抜けたような明るさが快くも感じられた。娘のパウラにしても、父親を殺してしまったのに、母親と同様に淡々と日常生活を営んでいる。
母と娘がそれぞれに、死んだ男に対して、どういう感情を持っているのかも画面からはうかがい知れずに、見る側の想像に委ねてられている感じがした。過去は引きずらずに、起きてしまったことは全て引き受けて、目の前のことを一つずつ片付けて、明るく生き抜いていくということなのだろうか。

死体を車に積んで湖に運ぶ場面もあるのだが、サスペンス的要素は十分にあるものの、死体を埋めるところまでスムースに進んでいく。誰にも気づかれなかったばかりでなく、ライムンダに協力して穴を掘ってくれる知人も、トランクの中身が死体であることは見当をつけている様子なのに、何も聞かない。

一方、ライムンダには、確執のあった母親と父親を、4年前に火事で亡くしてしまうという過去があった。
パウラを妊娠してから、15年間、母親とは音信不通の状態が続いていたのだが、母親が死んだ後も、ラムインダは母親を憎んでいて、心の中に大きなわだかまりを抱えていた。

夫が死んだ日に、ライムンダが大切に思っていた伯母が亡くなり、彼女は死体処理の真っ只中で葬儀に出席することはできなかったのだが、彼女の姉ソ-レが、そこで死んだはずの母親イレネの姿を見かける。
ソーレは、ライムンダに内緒で母親を匿い、一緒に生活するようになる。
イレネは生きていたのだ。
しかし、なぜ、イレネは姿を隠さなければならなかったのか。イレネもまた、人には決して言えない苦しい過去を抱えて生きていたのだ。そして、なぜ、ラムインダは母親を憎むようになったのか。
想像を絶するようなおぞましい過去を背負って、ライムンダのように生きることが、果たしてできるのかと思った。

映画が終わってからも、登場人物の女性たち一人ひとりが過去を引き受けながら、未来に向かって力強く生きていく姿がしっかりとイメージできた。その後も続くであろう主人公たちのつらく、苛酷な人生を思うと、大きな痛みを感じてしまうが、観る側のそんな思いや、他人の思惑など関係なく、彼女たちはこれからもしっかりと自分の人生を歩いていくのだろうと思った。映画の中の女性たちなのに、現実に生きて、そこで生活している人間のように、しっかりした輪郭と奥行きを感じさせるところが、この映画の優れている点なのかもしれない。
女性の、強さ、したたかさ、しなやかさを余すところなく見せてくれた作品だった。
同じ女性として勇気をもらった気もしている。


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8月の絵と詩 [笈川小百合さんの絵]


           8月の詩

      
        今日は 待ちに待った縁日です

        お店が ずらりと並びます

        金魚すくいも たのしそう

        たいこの音も 聞こえます

        ワクワクドキドキ してきます

        さあ 出かけよう  

        あなたにどこかで出会うかな 


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「受験の神様」と松島奈々子さん [子育て]


「塾のクラス分けテストで、下のクラスに落ちてしまうなんて、お母さん、恥ずかしくて外も歩けやしない」

このセリフは、先週の土曜日の「受験の神様」というテレビドラマの中で、中学受験の母親が言った言葉だ。

「受験の神様」は、中学受験などには興味も関心もなかった父親と小学6年の子どもが、野球が強くて名門の私立中学に合格するために、「受験の神様」と呼ばれる中学3年生の女の子を家庭教師につけて、父子ともども苦しんだり悩んだりしながら中学受験に挑戦するというストーリーになっている。

私自身はといえば、中学受験にはあまり関わりたくないと思いながら、過熱する中学受験の影響を受けてか、ここ何年かは引き受けざるを得ない状況になっていたので、好奇心も加わって、初回からこのドラマを見ていた。
今のところ、特におもしろいとか、中学受験の現状をよく描ききっているとかは思わないけれど、回を追うにしたがって、主人公の成海璃子チャンを通してテーマらしきものが見えてくるのではないかと思っている。
中学受験生に向かって、「受験の神様」が「あなたは受験がしたいの、それとも勉強がしたいの」と聞くあたりに、すでに制作者の意図が入っているような気がしないでもない。

前置きが長くなってしまったが、私には冒頭の母親のセリフが、しこりのように胸に残っている。
父親も母親も一流大学出身で、人間の価値を学歴や地位やモノやお金で判断する人たちに、こういう考え方はする人が多いからだ。
そして、多く場合、子どもは自信をなくし、傷ついている。
実をいうと、私は中学受験そのものに反対するつもりはないが、こういうタイプの中学受験の家庭に関わるのが苦手なのだ。(そうは言いながら、子どもと親の精神面でのサポートも一生懸命にやってしまうのだが…)

その子どもの性格や人柄は全く見ないで、学力テストの偏差値や、点数だけで、わが子を判断し、成績が悪いと、「恥ずかしい」とか「顔に泥をぬられた」という言葉で、子どもの悪い点ばかりをあげつらい裁く親になってしまう。

こうなったら、子どもは勉強なんて楽しいと思うはずがない。親に認められたいためにだけ、点数のためにだけ勉強をすることになってしまう。
本来、勉強というのは、いろいろなことを知ったり、自分の頭を使って考えた結果、わからないことがわかるようになる楽しい過程のはずなのに、結果だけを求められたら、おもしろさも半減してしまうだろう。

これに対して、テレビのインタビューに答えていた松島奈々子さんの言葉は好感がもてた。
「どんな子どもに育ってほしいですか」の質問に対して、「どうなってほしいかというより、大きくなったときに、どんなことを言う子になるんだろう、というほうが楽しみなんです」と言っていたからだ。

これは、母親の思いどおりに子どもをしつけるというより、子どもがもともと持っているものを大事にしたいという考え方が根底にあったからこそ、出てきた言葉だろう。
点数だけで子どもを裁いてしまう母親とは正反対の母親だ。
活躍している若い女優さんの中に、松島さんのような思いをもつ母親がいることがわかって、ちょっとうれしかった。


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7月の絵と詩 [笈川小百合さんの絵]



               7月の詩

        
               こんなに  暑い日には

               冷えた甘い西瓜が いちばん

               「食べたいな」

               「食べたいね」

               うさぎも ねずみも

               ことりも ありも

               みんな 次々やってきます

               あなたも一緒にどうですか


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