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夏の終わり [介護日記]

東京都の道路拡張工事にひっかかり、立ち退きを迫られていた実家の取り壊しが決まった。
それに伴う仮住まいへの引っ越しがお彼岸の日の23日、24日で終わった。
この日を迎えるまでの1ヶ月間は、私も足繁く実家に通い、母の荷物整理に追われた。

腰の持病に、うつ病(現在はかなりよくなってきてはいるが)を患っている84歳の母が、この引っ越しをうまく乗り切れるかが、ここ何ヶ月かの私の一番の心配事だったが、母は何とか持ちこたえてくれた。

ここに辿りつくまでに、私も少なからず大変な思いをした。2世代住宅の1階に住んでいた母の荷物整理は全面的に私が引き受けていたので、ダンボール詰めや廃棄処分品、コンテナに運ぶ荷物の仕分けなどをやったのだが、肉体的な疲れよりも精神的なストレスが大きかった。

母が、捨てるものと、残しておくものの決断がなかなかつかないのは仕方がないとして、2階に住む弟夫婦(特にお嫁さん)への気の使い方が、私のストレスの最たるものだった。それは、特にゴミ問題に顕著に現れた。
引っ越しだから、燃えるゴミ、燃えないゴミをはじめとして、粗大ゴミやリサイクル品など、いろいろ出てくるのは当たり前なのに、その処分をお嫁さんに頼むのは気が引けると言ったからだ。

仕方がないので、燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源回収に出す本や箱などのダンボール類、ペットポトル類、空き缶など等は、何回かの休日を利用して、夫に頼んで車で自宅まで運んでもらった。
賞味期限を過ぎたサラダ油やしょうゆの入ったペットボトル、油ポットに入ったままの古い油、中身が入った缶詰類も流しの下や、冷蔵庫からごっそり出てきた。全て、棄てることをお嫁さんに頼めないまま、手付かずになっていた食料品だった。
その量は半端なものではなく、それを分類して処分するにはかなりの時間を要した。
それに私が費やす労力もさることながら、母とお嫁さんのそうした関係に、いらいらさせられたのも事実だった。

引っ越しの当日、取り壊される家に、ねぎらいの意味も込めてオレンジのバラの花を2輪、飾ってきた。
今から45年前、夫(私にとって父)を交通事故で亡くした母が、実家から土地を譲り受けて建てた家だった。
家が出来る前に、1年ばかり、母の実家が所有していた物置小屋のような家に住んでいたこともあったのだが、母が建てたその家で、私たち親子(母と私と2人の弟)の、事実上の母子生活が始まったのだ。
父が亡くなるまでは恵まれた生活をしていた私たちは、それからは母の必死の働きで、学校に行き、就職をし、それぞれの家庭を持つことができた。
一家の大黒柱として家計を支えてくれたのはもちろんのこと、母からは有り余るほどの愛情ももらっていた。

45年前に建てたその家は、2階を人に貸して家賃収入を得ていたのだが、その後は改築して私や次男一家の盆暮れの宿泊場所になり、さらに4年前、母と同居することになった次男一家のために大幅な増改築が行われた。
それもこれも、母がしっかりと、堅実に生きてきたからこそ実現したものだった。
やさしくて、きれいで、賢い、私にとっては自慢の母だった。
そんな母との思い出がいっぱい詰まった家が、間もなくなくなってしまう。

今の母は体だけでなく気持ちもすっかり弱くなってしまっていて、今回の引っ越しについては不安ばかりが先に立ってしまい、なすすべもなくオロオロするばかりだった。
役に立たない自分に自己嫌悪も感じていたが、客観的に見ても、若い人にとっても大変な引っ越しをよく乗り切ったと思う。
不安ばかり、愚痴ばかり、不満ばかりを口にするので、引っ越しの最中は、私も、ついついきつい言葉を投げかけてしまったが、心の中では母がかわいそうでたまらなかった。
今までのように2世代住宅ではなく、台所も一つの仮住まいの生活では、これまで以上にお嫁さんに気を遣い、小さくなって生活することは目に見えていたからだ。
慣れない家での日中の一人暮らしも、どんなに心細く感じることだろう。

夏の終わりに、この週明けにも、母の家は取り壊されることになっている。
それと同時に、母と私が共に歩んできた一つの時代が終わったような気がして、家を後にするときには、感傷的な気分になってしまった。

それでも、これからも私は仮住まいの家にも通い続けて、母を支え、つかの間でもいいから母の笑顔を見たいと思っている。
「お母さんのことは、私が守るから、心配しないで」と心に誓いながら、母に会えなくなる日が訪れないことを願いながら。


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介護と財産 [介護日記]

親の財産はほしいけど、介護はしたくないというのが、昨今の一般的な傾向だと聞いている。

今から40年前のこと、祖母の長男(母にとっては弟、私にとっては叔父)は、祖父母が守ってきた山を含む千坪余りの土地を次々と売り払って現金に替え、ほしいものを手に入れてきた。
そして、もう売る土地も尽きてしまった30年前、叔父は祖母のためにという名目で、自宅が建っていた敷地内の土地まで手放し、大きな家を新築した。
その時、母が子どもの頃から馴染んでいた何本もの大木は切り落とされ、風情のあった庭も見る影もなく消えてしまった。
家を新築している間、叔父の家とは目と鼻の先に住む母が、祖母を預かることになった。母の叔父夫婦に対する葛藤は日増しに強くなっていった。

母自身は夫を交通事故で失くし、祖父(母にとっては父親)から少しばかりの土地を与えられたとはいえ、それからは働き続けて、中学2年だった私を筆頭に3人の子どもたちを育てながら、自力で家を建て、その後も増改築をしてきた。

だからこそ、祖父の財産を切り崩すだけで、労せずして家を新築しようとする叔父夫婦の姿勢を認めることはできなかったのだろう。

さらに、母が祖母を預かっている3ヶ月余りの間、祖母の様子を叔父夫婦が一度も見にこなかったというのも、母には許せることではなかった。
叔父夫婦があれだけの財産を受け継ぐからには、祖母に対してもそれなりの心遣いをしてもらいたいと思ったのだろう。
また、新築する家は祖母のために建てるとはいいながら、老い先短い祖母よりは自分たちのために建てるというのも、明白なことだった。

母の一番の不満は、生きること=食べることになっている祖母の食事が、母から見れば満足のいくものではなかったこと、また、祖母が叔父一家の中で、家族の一員として扱われずに、厄介者としてみられていることに対しても、心中穏やかな気持ちではいられなかった。

30年後の今、私はあの時の母と同じ思いを味わっている。
思いがけなく、母の所有する土地が道路計画にひっかかることになり、行政側からかなりの保証金が出ることになって、4年前から母と同居している下の弟一家が、そのお金を全部使って、母のために新しい家を建てると言い出したからだ。
弟一家と同居するようになってからうつ病になり(原因のすべてが弟一家にあるとは思っていないが)、持病の腰痛のために自分の体も思うようにならない母は、すっかり弱気になり弟夫婦の言いなりになっている。

私の弟夫婦に対する最大の不満は、今回の家の新築の件にとどまらずに、これまでにも経済的に母に寄りかかって生活してきているのに、「一緒に住んでやっている」という気持ちばかりが強くて、自分たちが母からしてもらっていることへの感謝の気持ちが感じられないことだった。

さらに、これは下の弟だけでなく、母に対しての不満にも結びつくことなのだが、毎月母に送金して、母の生活を全面的に支えてくれている上の弟夫婦に対しての感謝の気持ちが、下の弟からも母からも感じられないことだった。

下の弟は自力で家を新築することはできないと開き直っているが、上の弟だって生活に少しばかりの余裕があるとはいえ、購入したばかりの家のローンを少しでも早く返却したい気持ちがないと言ったら嘘になるだろう。
下の弟は教育費が大変だからと言っているが、わが家だって教育費とローンの返済が重なった時期は大変だった。
なのに、下の弟は自分勝手なことばかり言っている、と私も上の弟も思っていた。

また、食事のこと、母が家族の一員としてみなされてないことなども、30年前の祖母と母がたぶって見えて、当時の母を私がなぞっているようにも思われてならなかった。
叔父夫婦は母や妹たちには雀の涙ほどの土地を与え、自分は多くの財産を受け取りながら、祖母に対する態度は冷たかったというのが本当のところだった。

昨年の暮に突然、道路と家の建て替えの問題が持ち上がって、ブログを書く気にもならずに(書けば下の弟夫婦の悪口になってしまうし、財産の問題も絡んでくるのでそれもいやだったため)、葛藤が続いていたのだが、ここに来てやっと、自分の中で決着がついた。

下の弟から、最近、母への感謝の言葉を聞くことができたからだ。
それと、母を大切に想う私の気持ちは、下の弟と切り離して考えればいいと思い至ったからだ。

さらに、下の弟は、母から財産をもらうかわりに、自分の妻と母の間で苦しむことになるだろうことも容易に想像できた。
神経質(実の娘の私でさえ、母の細かさには閉口してしまうことがある)で、言いたいことも言わない母と、弟でさえも頭が上がらない気の強い弟の嫁とでは、相性が悪いことはこの上なしだからだ。
これからも続くであろう弟夫婦の葛藤は、ことによると、一番大変かもしれないとも思う。年老いていく母のためにも、私や上の弟が間に入ることによって、その葛藤をより大きなものにしてはいけないのだとも思った。

少しさびしい気がするが、今はもう母は私の母というより、守らなければならない子どものような存在になってしまった。
それを認めたくなくて、もがき続けていたのかもしれないとも思う。


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息子の一言 [介護日記]

兄の死で、母の退院の日が延び延びになっていたが、先月の27日に無事に退院できた。前日の26日は、翌日の退院に備えて、布団を干したり、シーツを替えたり、空になっている冷蔵庫に食べ物を補充するために実家に出かけた。そしたら、冷蔵庫以外のことはすべて前日に弟がやっておいてくれたので、病院と実家を一往復するだけの短い時間ですんだ(もっとも、台所の流しがずっと使っていなかったせいか詰まってしまっていて、それを開通させるための時間は取られたが)。

病院に着いたら、母から、上の弟から下の弟に対して文句の電話があったことを聞かされた。
「退院できるのに、いつまでお母さんを病院に置いておくんだ!」という内容だっという。
言うまでもないことだが、上の弟の電話で、つらい立場に立たされたのは母だった。
そうは言いながらも、退院に際して積極的に動いてくれない同居家族である下の弟夫婦に対して、母が不満を持っていることは読み取れた。

すでに、私は下の弟に対しては何を言っても、母にいやな思いをさせるだけだということは学んでいたので、自分のやるべきことを淡々とやろうと思っていた。

そこで、26日は荷物の持ち帰りなどの退院の下準備(夫が車を運転してくれたが)、27日は退院の付き添いと夜までの介護、28日だけをヘルパーさんにお願いして、29日、30日と丸一日、母の所に通うことに決めていた。
病院ではベッドで寝ている時間が大部分だったし、「痛い、痛い」と盛んに訴えていたので、家に帰ってすぐに普通の生活をするのは無理だと思ったからだ。

退院して家に着いたのは午後2時半頃だった。その日は、私の分も含めて母の夕食の支度をし、食事を共にし、後片づけもすませて母の家を出たのが7時半頃だった。
その時点で、お嫁さんは長男の高校の父母会に出席していて留守で、父母会の後は、いつもお茶飲みがあって帰宅が遅いとは聞いてはいたのだが、私は「それにしても、今日は退院の日なんだし」と思ってしまった。

翌日、退院後の様子が気になって母に電話をしたら、お嫁さんが帰って来たのは8時半位だったという。そして、その日、50日間も入院して家を空けていたのに、弟もお嫁さんも顔を見せずに、「お帰りなさい」の一言もなかったと言う。
私は不満だった。母にとってもきつかったに違いないと思った。

そのことを、自宅に帰って息子に話したら、「○○ちゃん(弟夫婦の長男のこと)が大学受験で大変なときで、おじさんもおばさんも余裕がないんじゃないの。お母さんだって、ぼくが中学受験で大変だったときに、おばあちゃん(同じ敷地内に住んでいた夫の母親)どころじゃなかったでしょ」と言われてしまった。
息子の言うとおりだった。
私に、弟夫婦のことをとやかく言う資格はないのだと思ったら、かえって気持ちがすっきりした。


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半分万歳 [介護日記]

10日程度ですむと思っていた母の入院生活が長引いて明後日で1ヶ月になる。入院して数日後には吐いたり、下痢したり、食欲が全くなくなったりして、口から食べることが出来なくなり、1週間余りにわたって点滴で栄養を摂っていた。

そのために、家から持って行った薬も飲めなくなり(母の入院した病院は、入院患者には薬を処方していなくて、家で飲んでいた薬を引き続き飲むことになっていた)、必然的にうつ病の薬も10日間ほど中断していた。

薬を飲まないことによる支障はすぐに表れた。まず、艶のよかった母の顔色がどんよりと曇り、痛みの部位が次々に移動し、目に光がなくなって、生きる力が急激に弱まっているのが感じられた。
私はすごく心配だったし、不安にもなったので、その週は根詰めて病院に通った。

以前に比べれば、母のうつ病はずいぶんよくなってきていたし、これなら薬はやめてもよいのではないかと思っていた矢先のことだったので、ショックも受けた。

幸いなことに点滴が取れて、再び薬を飲むようになると、母は目に見えてよくなってきた。
ベッドから起き上がることが出来ずに、このまま寝たきりになってしまったらどうしようと密かに心配もしていたのだが、付き添いは必要なものの、今日は歩行器でトイレまで行けるようになった。
さらに、用を足した後は、歩行器で少し歩く練習がしたいとまで言い出した。

うつ病になる前の前向きな母の姿がそこにはあった。
よかった、と思った。

それでも、手放しでは喜べない。
人生はいつだって、半分しか万歳はできないのだから。


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母のことは頭を離れないけど [介護日記]

2週間の予定で入院した母の退院の目途が経っていない。入院してからすぐに食べられなくなり、丸1日の点滴を10日間ほど余儀なくされていた(幸い、今日は点滴ははずされていたけど)。

2年前に腰の圧迫骨折をして、今回と同じ病院に入院したときは、私は相当な無理をして病院に通い詰め、体を壊してしまった。
その教訓から、今回はその二の舞は踏むまいと決心していたのだが、ベッドの上で身動きも出来ずに暗い顔をして、私の顔を見て涙を流す母を見ていると見過ごすわけにもいかず、週に3回は見舞いに行く生活を続けている。

家を1時半頃に出て、2時間位は病院にいて、帰宅すると大体6時位になる。通常、その日は、夕方から出勤する息子のために早めの夕食の支度をしたり、家に来る生徒の授業の予習時間に当てたり、必要に迫られた本を読んだりしているから、当然時間が押せ押せになってくる。

それでも、午前中は家事をしながら、1時間余りのウォーキングと体操は可能な限りやるようにし、見舞いの合間をぬぐって、どうしても見たかった伊勢真一監督のドキュメンタリー映画「ありがとう」(伊勢監督は、私が教育情報誌の編集記者をしていた時の取材相手で、あこがれの男性でもある)を友だちと一緒に見に行ったり、この前の日曜日には夫と一緒に神代植物公園のバラフェスティバルを楽しんだりもした。

映画は平凡な家族(「ありがとうって、言って」が口ぐせのてんかんと、知的障害のある奈緒ちゃんと年取った犬がいる)の25年間の生活記録を淡々と描いたもので、私は自分の家族とも重ね合わせて見ながら、子育てを巡る夫婦の意見の違いに共感したり、笑ったり、涙ぐんだりした。
伊勢監督の映画はどこがそんなにいいのか、うまく説明は出来ないのだが、とにかくいいのだ。

神代植物園のバラも見事だった。秋の空の下で、色とりどりのバラの花に囲まれて気持ちが華やいだ。お昼に食べた深大寺の十割そばもこしが強くておいしかった。

母の体はこれからもっと深刻になっていくだろうし、これから先のことを考えると不安は尽きないけれど、その時はその時のこと。その都度考えていくしかないだろう。くよくよしても始まらないし…。
自分の体と心のバランスを取りながら、母のことはこれからもずっと大切にしていきたいと思っている。


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母の入院 [介護日記]

今朝一番で母が入院した。10日前に、痛み出した背中がひどくなるばかりで、自宅で過すことに限界を感じた母が、自分から病院に入りたいと言い出したからだ。
昨日、弟からその旨を伝える事務的な電話があった。
「やっぱり、今回は本当につらそうだったものね」という私の言葉を無視して、「入院したって治るわけではないんだし、その後のことだってあるし、1週間や10日入院したってどうなるものでもないと思うんだけど」と弟は言った。

(自分の家では十分な介護が期待できないから病院に入るんじゃないの。先のことより、今のつらいい状態をなんとかしたくて入院するんじゃないの)
私は心の中でつぶやいたが、何も言わないほうがいいのだとすでに学習していたので黙っていた。

弟には内緒で母から昨日のうちに電話があり、お嫁さんが救急車で病院に連れて行ってくれると言っているが、それとは別に、入院に必要な品物を持って私に来てほしいと言う。

私はお嫁さんがやってくれるというのだから、私は行かないほうがいいような気がすると、私にしては珍しく母の頼みを断った。お嫁さんに遠慮しすぎて、何かといえば私を頼る母の態度が(仕方がないのだろうが)、母とお嫁さんの関係を悪くしているとも思っていたからだ。

母は入院ではなく、少しの間、私の家で世話になることも頭をかすめたという。けれど、そんなことをしたら、よくなったときに自宅に帰りずらくなるし、何よりも弟の機嫌が悪くなることはわかりきっていることだから、それは出来ないとすぐに打ち消したという(それ以上に、どんなに自分の体や心がきつくても、住み慣れた自分の家が一番いいという気持ちが強いのだ、と私は思っている)。

今日の午後になって、「無事、入院しました」という報告の電話がお嫁さんからかかってきた。そして、これからまた、入院用具一式を病院に届けてくれるという。
痛みがひどくて今は動けない状態だが、長くても10日程度の入院ですむこと(というより、それ以上は置いてもらえないらしい)、先生や看護婦さんには母が耳が悪いので大きな声で話してほしいと頼んだこと、母に対しては、看護婦さんには気兼ねなく何でも頼んだ方がいいと念を押してきたことなどを、彼女は私に説明してくれた。

確かに、お嫁さんはきつい人なので、母がなかなか言いたい事が言えないのはわかるのだが、出来る範囲のことはしてくれる人だと、私は思っていた(その出来る範囲が限られていることが、母が入院を決心する原因にもなってしまったのだろうが)。

それはそうと、これまでにも彼女と直接に話すと結構、話が通じるのに、弟と母のことを話して、それがお嫁さんに伝わるとおかしくなってしまうことが多々あった。
私と弟とは、きっと相性が悪いのだろう。

「大変だったでしょ。ありがとう」
私はお嫁さんに対して、素直に感謝の気持ちを伝えることができた。


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母をめぐる弟との葛藤 [介護日記]

「母の自分史」にも書いたが、上の弟(母にとっては長男)が50歳を過ぎて20歳も若い女性と結婚して、お嫁さんに引きずられるような形で家を出たとき、母は弟の新たな門出を素直に喜んだ。ところが、その後、弟がお嫁さんの実家のすぐ近くに新築のマンションを購入し、一人暮らしだったお嫁さんの母親がそのマンションに足繁く通っていることがわかると、母はひどく傷ついた。

出て行った上の弟に対して、「年老いたお母さんを一人にするのはかわいそうだから」と、一家で母の家に住むことを決心してくれたのは下の弟だった。勤め先に近かった自宅マンションを処分し、通勤が不便になるのも厭わずに母との同居を申し出た弟に対して、母はもちろんだったが、私も当時はどれほど感謝したかわからなかった。
私は上の弟と仲がよかったのだが、この時ばかりは下の弟のほうを好ましく思った。

けれど、私の感謝の気持ちはこの2年間で急速にしぼんでしまった。
母が元気で、自分のことを自分でやれているうちは何の問題もなかったのだが、母がうつ病になったり、腰椎の圧迫骨折をして、多少の介護が必要になると、弟夫婦に「自分たちは貧乏くじを引いた」という態度がありありと見て取れるようになったからだ。

私はひどいと思った。下の弟は、子どもたちが生まれたときから始まって、実家に移り住むに当たっても、有形無形でどれだけのことを母にしてもらったかわからないからだ。。やってもらったことはすっかり忘れてしまって、自分たちは「大変な思いをして、ここに住んでやっている」ということだけで頭がいっぱいになっているように思えてならなかった。

1週間前、母は腰の圧迫骨折に加えて、背中まで同じ状態になって入院寸前まで追い込まれた。民間のストレッチャー付きの車を頼んで病院に行くほど痛みがひどかったのだが、結局治療の方法がないということで入院は出来なかった。母の病院に付き合った私は、母のつらそうな様子が気になって、「母をいたわってあげてほしい」と弟に電話をかけた。

ところが、弟は「そんなこと言ったって、雨戸は自分で開けているんだよ。本当に痛いならっそれも出来ないということだろう」と言う。そして、「基本的に、自分たち夫婦は望まれたことだけをやるようにしているから」と付け加えた。
母が自分の家なのに小さくなって、弟たちに頼みたくても頼めない状況に陥っていることなど、想像もできないらしい。

その後、余計な口出しをした私に腹を立てて、弟も弟のお嫁さんも母につらく当たったことを、母から聞かされた。
私は後悔した。いくら母のことが心配だからといって、それを弟に伝えてはいけなかったのだと思った。

「83歳でこんな体になって、迷惑ばかりかけて、きっとあの子たちは(弟夫婦のこと)、私のことお荷物だと思っているのよ」と、母は私に言う。
弟夫婦から見たら、母はマイナス言葉しか言わないし、気の思い存在なのかもしれない。
けれど、母はうつ病だってこのところ随分よくなっているし、体重だって以前に比べて4キロも増えたし、お嫁さんには夕飯を作ってもらっているだけで、あとはヘルパーさんや私の手を借りながらも、とりあえず自分のことは自分でやっているわけだし、頭だってしっかりしているし、83歳にしては立派なもので、自分を否定することなんて全然ないと、私は思っている。

本当のところ、私はお嫁さんに対してはそれほどの悪感情はもっていない。お嫁さんとはそんなものだろうな、と思っているからだ。実の娘の私と、お嫁さんとでは母に対する気持ちが違うのは当然だろう。
けれど、弟は息子ではないか。

今現在の母をそのまま受け入れて、母の体の痛みや、老いの悲しさや不安な気持ちに、寄り添うことは出来ないのかと思う。
自分もやがて年老いていくということが、想像できないのだろうか。
「お母さん、大丈夫?」といういたわりの一言でもかけてくれれば、母の気持ちが救われるのにと思う。

上の弟は、毎月、母に相当額の生活費を当然のこととして振り込んでくれて、折にふれて、「お母さんのことはいつも気にしているんだけど、お姉さん(私)にばかり任せてしまって、ごめんね」と言ってくれる。そして、私がいる日に母の顔をお嫁さんと一緒に見に来る弟は、いつも母の手を握ってから帰る。すると、母は何も言わずに涙ぐむ。
下の弟は、家を出て行った上の弟が母の生活費の面倒を見るのは当然だと思っている。
私はそうは思わない。

そんな訳で、下の弟との葛藤はあっても、上の弟と私は気持ちが通じていると思っている。下の弟とは通じ合わないどころか、溝が深まっていくばかりで、今は顔も合わせたくないと思うくらいだ。

けれど、下の弟夫婦がいてくれるから、私は母の所に週に一日通うだけですんでいるわけだし、弟夫婦に対して「ありがとう」の気持ちを忘れてはいけないのだと、強く自分に言い聞かせなければいけないのだろう。

そうでないと、母を苦しめることにもなってしまうから。


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母の悪口 [介護日記]

 1年3ヶ月前に比べれば、母のうつ病はかなりよくなってきて、目がすわった感じではなくなってきたし、顔の表情も柔和になってきた。
本当は精神科か心療内科で診てもらうことが必要なのだろうが、もう1年近く、その手の病院には行ってないのに、症状が悪化してないのは、内科の先生が出しくれているパキシルという薬が効いているからかもしれない。

一昨年の秋、母が腰の圧迫骨折とうつ病で入院したときには、私はいい娘、やさしい娘をやりすぎてしまって心身ともに大変だったせいか、暮から正月にかけて1週間もダウンしてしまい、起きられない状態だった。
その教訓から、私はいい娘になるのはやめようと思った。身がもたないし、母のいうことを何でも聞いていたら、ストレスが大きくなるのも目に見えていたからだ。

そう決心していたはずなのに、このお正月、ヘルパーさんは来ないし、お嫁さんも食事の世話をしてくれなくて、飢え死にしそう(そんなことあるはずもないのだが、2日にお嫁さんの実家に弟一家が出かけてしまうので、不安になったのだろう)だという母の言葉を受けて、2日に母の所に行かざるを得なくなった。
毎週木曜日に母の所に通っているので、私の予定では、新年は5日を初日にしたいと思っていた。というのも、3日の朝から私は仕事で、5日もまた母のところに行くとなると、正月なのに少しも休めなかったという気分になってしまうのを避けたいと思ったからだ。

2日はそんな不本意な行きかただったから、いつもに比べて、私ははるかに機嫌が悪く、そこで母の悪口を書いてみたくなった。

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「老い」への処方箋 [介護日記]

体重が33kgまでおちてしまった母が心配で、病院に入院してもらったのだが、心配していたような検査結果ではなく、1週間余りで退院することができた。私にとっては一安心だったのだが、母の気持ちがそれで晴れることはなかった。腰の骨が今までの2本に加えて、もう1本つぶれていることがわかったからだ。そのために、こんなに腰が痛くて、起きているのがつらくて、みんなに迷惑ばかりかけている、とさらに落ち込んでしまった。

実は、私もそんな母と、母と同居する弟一家を見ていて、この1ヶ月間落ち込んでいた。老いること、年をとっていろいろなことが出来なくなることが、悪いこと、いけないことのように感じてしまったからだ。母は自分を家族に迷惑をかけるだけの無用な存在だと思って、自分の家なのに弟一家に遠慮して小さくなって暮らしている。
そんな母に接していて、私は年をとることがこわくなってしまった。私も年をとって、病気になったり、あちこと具合が悪くなって、人に手を貸してもらわなければ生きられなくなったら、自分の存在を否定しなければならなくなるのだろうか。老いへの悲しみや、できる事が一つ、また一つと減っていくことが、どんなにつらくて心細いことであるかが、今のように想像ではなくて、実感としてわかる日が、私にも確実にやってくるだろう。
そうしたら、私も母のようにうつになってしまうかもしれない。

その時に、老いを認め、出来ない自分を受け入れられる自分でありたいと思っているし(思うより、祈るような気持ちなのだが)、家族にも、欲張っていえば社会にも認めてほしいと思っている。人が年をとるのは当たり前のことだし、病気になったり、体のあちこちが思うように動かなくなるのも仕方のないことなのだから。

母が出来ないことを、私に頼むときと同じように、同居している家族にも気兼ねなく頼めて、弟一家がそれを快く引き受けてくれる雰囲気が家庭の中にあればいいと思う。
だが私は、それ以上に、母の老いの悲しみと、私の老いへの不安をやわらげてくれるものが他にあることを知っている。それは、「ありがとう」「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「今日は、体の具合はどう」などの、家族からの何気ない一言だ。それもドア越しではなく、面と向かっての声かけだ。それだけで、きっと、どんなにか気持ちが明るくなることだろう。
それが、現在の母に一番効く薬の処方箋だと私は思った。

私がそれを弟に望んだことは、そんなにいけないことだったのだろうか。

(追記;ずいぶん、記事を書かなかったのに、見捨てないで読んでくださっている方、本当にありがとうございます。)


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母と子の関係 [介護日記]

昨日の母の入院に際しては、朝8時半に家を出て、夜の8時半に帰宅するまで、丸1日、病院で付き添うことになった。
今回の入院は、骨と皮ばかりになった母のことが心配で、私が半ば強引に検査入院を勧めたのだが、病院に着くやいなや、母の気持ちを煩わせることがあった。
病院側は、4人部屋のベッドを空けて待っていてくれるとのことだったが、最初に案内されたのは個室で、そこでしばらく待つように言われた。30分と、立ったり座ったりの姿勢を維持できない母は、一刻も早く自分の病室に落ち着きたいようだったが、容易に叶わず、結局、病室が決まったのは5時半だった。
さらに、母の不安を煽ったものがあった。主治医が仮の病室にやって来て、母と私を前に、「お年寄りは、かなりしっかりしている方でも、入院を機に痴呆が出てくることがあるので、その場合は、ベッドにくくりつけることもありえますけど、それは了承してもらえますか」と言ったのだ。加えて、「容態が急変した場合は、延命処置はどうしますか」と畳み掛けた。
最近は、病院側の責任が追及されることが多くなっているから、病院側も神経質になっているのかもしれないが、私は本人の前で言う言葉ではないと思った。

そうでなくても、入院に対して不安でたまらない(一番の不安は、補聴器をつけていても耳が遠いため、医師や看護士の言葉が聞こえず、コミュニケーションがとれないこと。この件に対しては、事前に説明しておいても、これまで入院したどの病院でも芳しい結果は得られなかった)母が、医師のこの言葉を聞いて、さらに不安になったのは確かだった。もしかしたら、自分も惚けてしまうかもしれない、さらに具合が悪くなったらどうしようと、悪いことばかりを考えたに違いない。
もともと、私は丸一日、病院で母に付き添うつもりでいたが、部屋のこと、医師の話を聞いてからは、なおその気持ちが強くなった。
そんな私に対して、母は「いつも、いつも負担ばかりかけてしまって」と、何回も謝まり続けていた。

心配性の母と、くよくよ考えない私と、他人に必要以上に気を遣う母と、他人の目はほとんど気しない私とでは、人やものに対する考え方も自ずと違うから、葛藤もままあった。特に、去年、母が具合が悪くなってからは、いろいろな場面でそれが強く現れ、きつく感じることも多かった(母も私に対して、同様のものを感じていたと思うが)。
それでも、私が母からも周囲からも母にやさしいと言われるのは、性格の違いは違いとして、これまで母からそれだけの愛情を注いでもらったからだ。
母の自分史でも、これから書いていくことになるが、父が亡くなってから母は私を含めた子どもたちのためにだけ生きてきた。私たち姉弟はどれだけ大きくて深い愛情を母からもらったかわからない。母はそのことを恩に着せたこともないし、全く覚えてもいないようだけど、私にとっては忘れようにも忘れられないことだった。
母が自分のことしか考えないわがままな人だったら、おそらく私は今のように母にやさしくは出来なかったと思う。

親が子どもを大切に思うのは当たり前だと言われているけど、今は、当たり前のことが当たり前でなくなってきている。
前にちらっとS君のことを書いたけど、S君の母親はS君のことを少しも大切にしていなかった。S君の母親がS君のことを思いやる心の余裕がなかったと言ってしまえばそれまでだが、それにしてはひどすぎた。なのに、小学1年のS君は母親のことをいつもかばって、やさしくしていた。

親が全く親らしいことをしない場合には、子どもは、親子の呪縛を断ち切ったり、親を見限ることも、ときには必要なのではないかと、私は思う。


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