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老いるということ [介護日記]

昨年、母が2回目の腰椎の圧迫骨折とうつ病で入院してから1年近くが過ぎた。退院してからは8ヶ月余りになる。

退院した当時に比べれば、ベッドに寝ている時間が長いとはいえ、起きていられるようになったし、うつ病のほうも、薬の量(デパスとマイスリー)は半分以下になったし、話していてもうつ病を感じさせるものはほとんど見られなくなった。
それでも、私の頭から離れない心配事があった。それは、46キロあった母の体重が33キロまで減少してしまったことだ。うつ病になると体重が減るというし、寝ている時間も長いのだから、筋肉がおちて体重が減ることも考えられた。それにしても、33キロという体重は少なすぎる。肉が落ちて体がひからびている状態なのも気になった。
そこで、私は母に病院に検査入院してもらおうと考えた。何でもなければそれにこしたことはないが、手遅れになって本人が苦しむのを避けたいと思ったからだ。最初は抵抗していた母も、自分の体に対して、危機感をもったらしく、入院することを納得した。

受け入れ病院を探して、入院が明後日と決まった。同居している家族よりも、母が何かと私を頼るので、最近は実家に行く日も増えていて、その流れで今日も入院準備のために実家に行ってきた。
同居の弟一家に言いたいことが言えないためか、仕事や家事のやりくりをしながら精一杯のことをしているつもりの私に対して、母はいつも自分勝手なことを言い、私の家事のやり方や段取りが意に沿わないと、露骨にいやな顔をしたり、文句を言ったりしていた。

今日は、特に母があまりに自分本位で、私のすることなすこと文句を言うので、めったに怒ることのない私も、いやになってしまった。私はできる以上のことをやっているつもりなのに、これ以上、何をやったらいいの、という感じだった。
そんなところに友人から誘いのメールが入った。母が入院する旨を伝え断ると、再び、メールが届いた。
「お母さんがさみしくないように、心細くないように傍にいてあげてください。あなたも体に十分気をつけてね」という文面だった。それを母に読んで聞かせたら、「そうなのよ。明後日からの入院のことを考えると、不安で心細くてたまらないのよ」と泣きそうな声で訴えられた。私は母の肩を抱きながら、やせてしまって、もともと背の低い母が、さらに小さくなってしまったのを感じた。しばらく手も握っていたが、そうしているうちに母の心細さが、痛いほど私の胸に伝わってきた。母がいとしくて、悲しくて、涙が出てきてしまった。「大丈夫よ、お母さん。私はいつだって、お母さんの傍についているんだから」と言うのが、やっとだった。

私にいちいち突っかかってくるのも、入院することへの緊張や不安や心細さから出たものだということが、今更のように理解できた。
元気な私は、まだまだ母の身になって考えることが足りないと、つくづく反省させられた。母のように自分で出来ることがどんどん少なくなって、他人の手を借りなければ生きていけなくなると、人のことを思いやる心の余裕がなくなるのかもしれないと思った。出来ないことは出来ないといえばいいのにと思うのは、自分が元気だから言える言葉なのかもしれない。老いるということは、生きることそれ自体が仕事で、自分のことで手一杯になることなのかもしれないなとも思った。
だとしたら、現在、不安と心細さの極限に達している母の気持ちに寄り添うだけで、それだけで、母はかなり救われるかもしれないと、改めて感じさせられた1日だった。


そこにいるのにいない存在 [介護日記]

母と同居している弟一家が夏休みの家族旅行に出かけるというので、その留守中、私が実家に泊り込んで、母の面倒をみることになった。

うつ病の母と丸3日間顔をつき合わせて過ごすことは気が重かったのだが、3日間とも、母は私にやわらかい笑顔を見せてくれて、心配していたストレスも感じずに、無事、役目を果たすことができた。「あなたには何でも言えるので、つい文句ばかり言ってしまって」という母の言葉どおりに、してほしいと母に頼まれるから、私は母の意に沿うようにしているのに、やればやったでやらなければよかっただの、やり方が気に入らないなどと言われてしまう。
そこで私は、「してほしいのか、してほしくないか、はっきりしてよ」と文句を言うことになってしまうのだが、それでも私は母ときちんと向き合い、相手をしているので、もしかしたら、それが母の顔を、おだやかに、やわらかくしている原因かもしれないと、ふと思った。

それを強く感じたのは、弟一家が夜になって帰って来た時のことだった。一人で置いて行かれた母(一緒に行けないことも確かなのだが)に対して、お嫁さんや孫たちほもちろんのこと、弟までが、母の顔を見て「ただいま」と挨拶をしなかった。
弟一家は玄関に出迎えた私と母に対して、私には話しかけてきても、そこにいる母の姿は目に入らないようだった。

年寄りと一緒に暮らす家族が一番大変だから、自分の親にだっていちいちやさしくなんかしていられないと言う話をよく聞く。それはそうだと、思う。傍からなら何とでも言えるが、いざ一緒に暮らしてみたらそうそうやさしくなんてしていられないと思う。
けれど、そこに母は確実にいるのに、顔も見てもらえない、言葉もかけてもらえないのは、ちょっときついなと、私は思った。
きっと、弟一家にだって悪気はないのだろう。自分たちの態度に気がついていないのかもしれない。

健康で力がある側にいる人間は、出来ることが少なくなった老人に対してだけでなく、障害をもっている人や、弱い人間に対しても、そこにいるのにいない存在として見てしまうことが、往々にしてあるのではないかと思った。

ちょっと話が飛躍してしまうが、不登校や引きこもり、ニート、フリーターと言われる若者に対しても、彼らの数がどんどん増え続けているのに、いるのにいない存在として扱われることが多いように思う。
どんな人に対しても、その人の存在を認められる社会になればいいなと思う。


うつ病の発症 [介護日記]

うつ病になってしまった母と付き合うようになって丸9ヶ月が過ぎた。まだまだ状態がよくなったとはいえないが、ときに笑顔が見られるようになったところで、9ヶ月前の母の様子を思い出して書いてみたいと思う。

その日は、お嫁に行った娘と一緒に母の所に遊びに行くことになっていた。何となくふさぎこみがちな母も、久し振りに孫の顔でも見れば少しは元気になるかもしれないと思い、私が娘を誘ったのだ。
ところが、朝一番で母から電話があり、私が行くのはいいけど、娘には来てほしくないと言う。前の晩に震えが止まらなくなり、服用するようになって間もない安定剤を合計で6錠飲んで、やっと眠ることができたのだという。

娘にはその旨を伝えて、私は実家に泊まるつもりで自分の家の夕食の支度をしてから、ひとりで母の家に向かった。実家に着いた途端、母の顔から尋常でないものを感じとった。顔全体が沈んでいて表情が硬く、目が据わっていてこわかったからだ。
それでも、私が作った夕食はおいしいと言って食べてくれて、一番の心配事は毎日の食事のことだと訴えた(腰痛で台所に立って食事を作ることがかなり困難になっていたため)。そこで私は、「これからは腰が痛い日は、お嫁さんに作ってもらうようにして、あとはヘルパーさんに頼めばいいんだし、私も作りに来るから心配ないわよ」と、曜日の分担まで考えながら母に提案した。

すると、母は急にこわい顔をして、「そんなに一度に言わないで。一度に言われたら考えられなくなってしまうから」と怒り出した。その後は、何を言っても母の気持ちが和らぐことはないのだとあきらめ、言葉少なく母と向き合ったが、お葬式みたいな雰囲気で気が滅入ってしまった。

結婚15年で夫を交通事故で亡くし、女手一つで私と二人の弟を育ててくれた母だった。いままでは、うれしいときも、悲しいときも、楽しいときも、つらいときも母とは気持ちを分かち合うことができた。そんな母が突然いなくなってしまって、目の前には別人になってしまった母がいた。

母が寝ついてから、私はこっそり夫に電話をした。
「お母さんがお母さんでなくなっちゃった」
それが私の実感で、悲しさと寂しさが一気に私の心に押し寄せてきた。


ヘルパーの講習を受けてみて [介護日記]

子どもに関わる仕事をちょっとお休みして、ヘルパー2級の講習を受け始めた。半年前の私からは考えられないことだったが、母の介護をしていて心境が変化したのだと思う。

講習はまだ今日で4日目だが、参考になったことが多々あった。その中でも、老人の適応能力の低さについての講義は役に立った。

これまで、私が実家に行くたびに、母からはお嫁さんの作ってくれる夕食の時間が8時過ぎになるのはつらい、孫たちが趣味でやっているドラムやピアノの音も耳障りでたまらないと訴えられていたのだが、同居している弟一家の家族形態や生活時間を考えればそれも仕方がないことと、私は思っていた。

けれど、ヘルパーの講習を受けてみて、このことについて母の気持ちをわかっていなかったと大いに反省させられた。母は病気のせいでこらえ性がなくなったとさえ思っていたのだが、それは大きな間違いで、その人自身の性格や人格には関係がなく、ほんの少しの変化にも老人は適応することができなくなってしまうということを、教えられたからだ。

2年前に弟一家と同居するまでは、母は7時には夕食を食べ終わっていた。それが1時間以上も遅くなり、しかも前のように自分で料理を作ることができないので待っているしかなく、そのうえ、一人暮らしともいえる静かな環境から、多くの音を聞く環境に変ったのだから、適応能力が低下している母にしてみれば、その変化に対応することは不可能に近いことなのかもしれない、と改めて思った。

今回の講習では、適応能力の低い親と、そうではない子どもたちが一緒に住むのがそもそも無理な話で、これからは親友同士、または家庭的なグループホームなど、他人と住むケースが増えてくるという。
そして、介護はプロに、家族は愛をという新聞記事も合わせて紹介された。

私たち団塊の世代は、親は介護しても、子どもにはそれを期待できない世代だといわれているが、どうなるのだろう。体が元気なうちは何とでも言えるのだが……


孤独はつらい [介護日記]

うつ病になってしまった母は、今はまるで病気のデパートのようにあちこちの傷みや、体の不調を次々と私に訴える。腰の痛み、パーキンソン病の怖れ、うつ病、噛めない歯、胃のもたれ、食欲不振、10キログラム以上の体重の減少、便秘、難聴と、ちょっと数えただけでもこれだけ出てくる。
その中でも、ずっと心にひっかかっているのは、両手が震えて、歩くときに足が重くて、頼りないというものだった。入院していた病院で、医者にそれを訴えたら、パーキンソン病の薬が出るようになって、以来母は自分がパーキンソン病だと固く信じ込むようになった。
私は母がパーキンソン病だとはどうしても思えなくて、母のことをパーキンソン病ではないと診断してくれる先生、それと食事の量よりも薬の量のほうが多いことから、薬を減らす方向で考えてくれる先生を探すことにした。

そして、今日、やっと探し当てた先生から、「パーキンソン病ではなく老人性震顫(しんせん)だと思いますよ」という言葉をもらうことができた。副作用が多いと聞いていたパーキンソン病の薬は即刻中止、望みどおり薬も4種類減らすことができた。

いい先生に巡り会えてよかったと、私はご機嫌だったが、母の孤独を指摘されてこころが痛んだ。母は弟一家と同居しているものの、家の中では孤独だった。弟一家は子どもの教育に燃えていて、母のことを気にかける心の余裕がないのだ。まして、すべてをマイナスに考える今の母の相手をするのは、弟もお嫁さんも苦痛らしい。
それでも私は、一日に5分でもいいから母の話を聞いてあげてほしいと思う。けれど、「お母さんは寂しいのよ」と弟夫婦に伝えることはできない。2人とも疲れていることがわかるから。

今は、母に限らず、誰かに話を聞いてもらいたい人が多いのではないかと思う。
中には一人が好きだという人もあるかもしれないが、人と話したり、接したりすることはすごく大切なことで、誰にも自分の気持ちを聞いてもらえなかったり、わかってもらえななかったりしたら、すごくつらいし、悲しいことだと思う。


うつ病 [介護日記]

母がうつ病になって、9ヶ月が過ぎた。うつ病に加えて、去年の9月に2度目の腰椎の圧迫骨折をして3ヶ月の入院生活を余儀なくされ、母の精神状態もこれまでになく最悪なものになった。

退院したのは、今年の1月で、そのときから私は週に一、二度、実家に介護に通うようになった。
うつ病の自己診断というのがあって、ほとんどの項目が母に当てはまってしまうのだが、その中でも特に、・気分がゆううつで、うっとおしい、・何事にも関心がもてずに、楽しめない、・自信がない、ダメ人間になった、・他人に迷惑をかけて申し訳なく感じる、・物事の判断ができない、・食欲がなく体重も減った、などが顕著に出ている。

私が一番悲しく思うのは、母が全く自分を否定してしまっていることだ。これまできちんと生きてきただけに、今の自分の姿がいやでたまらないようだ。腰も痛いので、長く立っていたり、座っていることができなくて、好きだった料理も本を読むこともできなくなった。そうなると、プラス面は全く数えられなくなって、マイナスばかりを数えるようになった。
前の母も、今の母も、私にとっては何ら変ることのない大切な母なのに、そんな私の気持ちも今の母にはわかってもらえない。この間は、あんまり母が自分を否定するので、怒った挙句に泣いてしまった。
そうしたら、母が「私があなたを泣かせてしまったのね。だけど、私はあなたの涙を見ても泣けないのよ」と、自分の気持ちが歯がゆくてしょうがないような言い方をした。

これから9ヶ月前に遡りながら、現在進行形で母の介護日記を書き、老いていく母と向き合い、やがてくる自分の老いの日々の処方箋にしたいと思っている。


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