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息子の山村留学(6) [私の子育て ]

8月に入ってからの夏休み、雄一は2回目の里帰りをした。長野の生活に慣れたとはいえ、自宅に帰るのを楽しみにしていたはずの雄一が、帰宅早々、些細なことで怒ってばかりいた。

「帰ってきても何もおもしろいことはない。ぼくはもう、冬休みも帰って来ないし、2年になっても帰って来ない。高校も阿南高校(泰阜村の隣村の高校)に行く。明日帰るから早く高速バスの切符を取って!」

私にも、長女の陽子にも原因に全く心当たりのない、支離滅裂な怒り方だった。これまでの他人との生活における我慢が爆発したのだと、私は寛容に構え、雄一の態度が許せない陽子を制止して、静かに雄一の暴言を聞いていた。

その一方で、雄一にとってはダイダラボッチが過ごしやすい場所で、東京には魅力がないのだと実感し、暗い気持ちになった。
残すところ半年余りで、雄一は東京に戻ることになっている。その時になって、東京の生活にうまく適応できるかと不安になった。泰阜村の自然と、ダイダラボッチの生活を東京に再現することは不可能だったからだ。新たな問題を抱え込んだ私に、雄一が突然に、しかし、静かな声で話しかけた。

「あれ、ぼく、どうしたんだろう。イライラしちゃって。お母さん、ごめんね」
私は雄一の言葉が信じられなかった。雄一はそれまで一度として、自分の言動を振り返ってみることなどしない子だった。

私や夫が幾度となく、もう一人の自分を作るようにと注意しても、いつも自分勝手な独りの雄一を存在させるだけだった。そんな雄一が、自分の内面を見つめ、本心から謝った。格段の進歩だと思った。

それからの雄一は穏やかだった。山と積まれた宿題を、いい加減にではあるが毎日少しずつ仕上げていった。また、夫と一緒に「ランボー」の映画を見に行ったり、地元の友だちと「リングリングサーカス」を楽しんだりもした。そうこうするうちに、2週間の短い夏休みは終わり、雄一は元気にダイダラボッチへと戻って行った。


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息子の山村留学(5) [私の子育て ]

ダイダラボッチに到着すると、私はすぐにタンスの整理を始めた。すると、引き出しから汚れた衣類や靴下類がどっさり出てきて、「あら、あら」と思わず声を出してしまった。
学校のワイシャツなどは1週間は取り替えていないようすで、襟の部分は真っ黒だった。手紙や電話で、下着を毎日取り替えることや、夜の歯磨きについては何度も注意していたのだが、聞き流していたようだ。

整理整頓が苦手なのは相変わらずだと思ったが、授業参観に出席のため、そこを訪れていた他の母親たちも似たりよったりの状況で、離れの風呂場にある5台の洗濯機は母親たちによって占拠されフル回転だった。洗濯当番も決められてはいたのだが、そこは子どもたちのすること、行き届かないのは仕方がないわね、と苦笑しあった。

子どもたちが寝静まった夜遅く、Kと相談員たちを囲み、定例の茶話会が開かれた。私はその場所ではいつも反省させられることばかりだった。よいことではないと思いつつ、長女の陽子や雄一を、現在の社会の枠の中で育てようとする狭い了見の私とは違って、そこの母親たちは、学校の勉強よりも何よりも生活を第一に考える人たちだった。今の教育制度の中で、子どもたちにとって何が大切なのかをおさえている人たちだった。

ダイダラボッチの子どもたちの母親代わり、Kさんも信頼できる人だった。いつも静かでやさしく、時々体を壊すほど多忙を極めていたが、大声で子どもを叱ったり、せかしたりすることは決してしなかった。
音楽や演劇を好み、それらに触れる機会を数多く提供してくれるMさんも、また、釣りの名人で信州大学を卒業し、将来は高名な物理学者と噂されているSさんも、前述のGさんと同じように、子どもたちにとっては尊敬できる大人だった。そして、この4人の存在が、雄一を安心してダイダラボッチに預けられる最大の要因になっていた。

翌日の授業参観の科目は社会だった。アフリカのガーナについて学習した感想を、各自が発表するという授業だった。雄一は、「ガーナはカカオがいっぱい取れるのに、ガーナの子どもたちはチョコレートを食べることが出来なくてかわいそうだと思います」と冒頭で自分の意見を述べ、数行の宿題に対してノート1ページ分を発表した。

雄一がそれだけの分量を、強制もされずに自発的にノートに書いたことに、私はすっかり感動してしまった。雄一のやる気がうれしかった。しかし、教室内を見回すと雄一に限らず、生徒全員やる気を見せていた。教えられることをただ聞くだけの受け身の授業ではなく、生徒が均等に機会を与えられる参加型の授業だったからだ。
東京の40人学級では、雄一に発言するチャンスはなかった。先生に存在を認められていることが、何にも増して励みになっているようだった。

授業参観が午後3時に終了するとすぐに、飯田発5時の新宿行きの高速バスに乗るために学校を後にした。私も雄一もサバサバと別れの挨拶を交わしたが、車窓の人となった私は、窓の外の暗がりの中に雄一の面影だけを描き続けていた。

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息子の山村留学(4) [私の子育て ]

雄一は農繁期の中間休みということで帰宅したのだが、帰宅当日は疲れが出たのか会話らしい会話もしなかった。ところが、翌日になると、特に私の方から問いかけなくても、次から次へとダイダラボッチでの生活について語り始めた。

山から薪を背負って運んだこと、その薪で沸かす風呂のこと、斧を使ってのまきわり、朝7時からの朝練と夕方6時半までのテニスの部活等など、私を含めた家族にとっては新鮮な内容ばかりだった。

特に印象が深かったのは、仲間の女の子が宿題を終らせていなかったために、皆が楽しみにしていた天竜川での川遊びが出来なくなった話だった。

ダイダラボッチの子どもたちは毎日の仕事に追われ、宿題をやらないことが多いという。それを学校側からも注意されていたので、土曜日中に全員が宿題をきちんと仕上げたら、翌日の日曜日は天竜川に行く予定になっていた。

雄一もがんばって宿題を終らせていたので、本当にがっかりしてしまって、皆と一緒に女の子を責めたという。たった1人のやる気のなさのために、残り全員が迷惑したことを、雄一は身を持って体験してきたようだった。

その話は後日、私がダイダラボッチを訪問した折に、相談員から事の次第を詳しく聞くことが出来た。宿題をやらなかった女の子は、最初から川遊びには乗り気ではなかったという。

ところが多数決で行くことが決まり、女の子も仕方がなくそれに従ったのだが、宿題だけはやらなかったらしい。そのことでその子は仲間たちから非難されることになったが、最後まで謝らなかったという。

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息子の山村留学(3) [私の子育て ]

翌朝になると雪はすっかりやんでいて、光り輝く銀世界の中で見たダイダラボッチとその周辺の風景は雄大で、言葉では表せないほどすばらしかった。それを見た夫は、「この自然の中で1年間暮らすだけでも、雄一にとってはいいことかもしれないな」と言ってくれて、張り詰めていた私の気持ちも軽くなった。

山村留学のパンフレットには、持って来てはいけないものが1つだけ明記されていて、そこには「親の期待」と書かれていた。にもかかわらず、私は雄一が1年間で大いに変わることを期待していたのだが、そんな気持ちは跡形もなく消え、夫と同じ気持ちになっていた。

ダイダラボッチの建物と、どんな子どもで受け入れてくれそうなKと温かい相談員たちと、山と川のある泰阜の自然の中で暮らすこと、それだけで十分だと思った。そして、知り合ったばかりの子どもたちと一緒になって、ダイダラボッチの広い庭に記念樹を植える雄一は、いつになく輝いていた。自然が不思議に似合う子だった。

村役場で転入手続きをすませ、雄一が入学する泰阜南中学校に出向き、村人への挨拶回りも終った3日目、いよいよ雄一を置いて帰る日が来た。夫は仕事の関係で前の日に帰っていて私だけが残っていたのだが、最寄り駅まで私を見送った雄一は、予想に反して心細そうな様子を見せなかった。

飯田線に乗り、1人になった私は初めて涙を流した。
「なぜ、こんなにつらい思いをして、雄一と離れ離れに暮らさなければならないのだろう」
私はかなり感傷的になっていた。私が後押しして実現した山村留学なのに、早くもそれを後悔する気持ちすら生まれていた。

それでももう引き返すことはできないと思い、それまで雄一と過ごした日々に思いを馳せながら、心の中で雄一に語りかけていた。

小学校入学から今日までの6年間、あまりの出来の悪さに、ついつい嫌いな勉強を押しつけてきてしまった。けれど、もっと大切なものがあるといつも思っていた。親や先生や周囲の大人たちから言われなくても、自分から何かしたいという躍動する気持をもってほしいと願っていた。

幼稚園段階から、先生に自宅でひらがなの勉強を見てやってくださいと言われ、小学校の高学年になると母親である私への先生からの要求はさらに強くなって、私もそれなりの努力はしてきたつもりだった。

けれど、そんな私と勉強嫌いの雄一とはかみ合わないまま今日まできてしまった。雄一は常に私の言葉を「うるさい」と反発して聞かないだけでなく、耳に蓋をしてしまって入っていかないようだった。

今後は他人の中で生活をするのだからそうはいかないだろうと思った。人の話はよく聞いて、自分の意見や気持ちもきちんと伝えて、他人と心を通わせていかなければやっていけないだろう、と思った。

それは雄一にとってはやさしいことでないと思うけど、とても大切なことだからね。
お母さんも東京で、雄一に負けないようにがんばるからね。雄一もしっかりやろうね。遠くにいても雄一のこと、見守っているからね。

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息子の山村留学(2) [私の子育て ]

息子の山村留学を今年の1月に書き始めたのですが、一昔前のことでもあり、思い出しながら書くのもどんなものかと思っていたのですが、当時のことを記録した文章が出てきたので、それをそのまま写して最初から書き直すことにしました。

息子の山村留学(2)

小学校の卒業式翌日の3月26日、私と夫と息子の雄一は、夫が手配してくれたワゴン車にタンス、布団、衣類等の生活用品を満載して、山村留学先の長野県下伊那郡泰阜村に向かった。

目的地までの行程は困難を極め、中央高速に入ってすぐに雪で車は渋滞、昼の12時に自宅を出て、飯田に着いたのは午後11時だった。飯田から泰阜村までは車で1時間の距離と聞いていたのだが、午後7時から始まる一同顔合わせのミーティグに大幅に遅刻することは決定的になってしまった。

雪は断続的に降り続き、辺りの木々もすっかり雪化粧。そんな中で私たちは道に迷ってしまった。ガソリンは残り少なくなり、高速を降りてからの道は標識もなくて地図は頼りにならずに、深い山の中で人家も見当たらないという悪条件も重なっていた。山村留学に最後まで消極的だった夫は苛立ちを見せ、雄一に当たった。

やっとのことで人家の灯りを見つけたのは、午前零時を回った頃だった。そこが偶然、泰阜村の中学の先生の自宅で、ダイダラボッチ(民話が伝える、山と川を造ったこころやさしい大男のことで、山村留学先の愛称)に迎えに来るように電話をかけてくれた。

迎えが来るまでの間、コタツに入れてもらい、お茶をご馳走になったが、見知らぬ他人の親切がうれしかった。まして、それから雄一が生活する村だと思うとなおさらだった。
ダイダアラボッチ到着は午前1時だった。通常なら車で5~6時間の場所だが、12時間もかかったことになる。

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息子の山村留学(1) [私の子育て ]

息子の山村留学を決心する前に、たとえ半年余りでも中学受験のための勉強をしたのは悪いことではなかった。同じ学年の子どもが、学校よりもはるかに高いレベルの勉強をしていること、ぼんやりしている自分とは全く違った世界があるということを知っただけでもよかったと思った。

さて、実際に息子を山村留学に送り出したあとの私の生活は信じられないくらい楽になった。寂しさよりも、息子から解き放たれた解放感でいっぱいだった。受験をあきらめても学校の勉強だけは見ていたので、それがなくなっただけでも随分と気持ちが軽くなった。山村留学は息子のためというより、私自身が楽をしたくて、それで息子を長野くんだりまで送り出したのではないかと、母親としての自分を疑ってみるほどだった。

しかし、楽なことばかりではなかった。まず、大変になったのは家計だった。新築して間もない家のローンに加えて、山村留学先に係わる費用が家計を圧迫せずにはおかなかったからだ。最初から、毎月の山村留学先に払う費用は覚悟していたのだが、行事があるごとに出かけて行く私の往復の交通費や、息子が用件や泣き言でかけてくるコレクトコールの電話代は想定外のものだった。

そして、息子と別れて1週間も経たないうちに、中学の入学式を迎えた。片道でも5~6時間はかかるので、前の日から出かけて、その晩は息子の部屋に泊まり、翌朝の入学式に参列した。

留学先(宿舎)から中学校までは山道を歩いて30分ほどの道のりで、学校は深い谷を望む山間にあった。
校門のところには、緑の中でそこだけ一際くっきりと青空の下、桜の花が咲いていた。

よくは覚えていないが新1年生は11人で、そのうち4人は息子と同じ山村留学の子どもたちだった。
「過去は問わない」と、息子の担任の先生は言った。
私はうれしかった。

この、のどかで、伸びやかな山の学校で、息子がこれまでの自分と決別して、新しい空気をいっぱいに吸って過ごしてくれたら、それだけでもいいと思った。
とにかく、1年間、私と離れて暮らすことができれば、それだけでも息子のことをほめてやりたいと思った。

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中学受験から山村留学へ [私の子育て ]

中学受験を断念した(もともと、無理な話だったと母親である私が気づいただけの話なのだが)からといって、それで息子の問題が解決したわけではなかった。息子は、先生からも友だちからも、「どうにもならない、だめな子」というレッテルを貼られたまま、地元の中学校に進むことになるからだ。そのレッテルは、息子自身の自己肯定感を弱め、その先の息子の人生を暗くすることは容易に察しがついた。また、小学校の段階で落ちこぼれてしまったら、本人に余程の心境の変化(やる気になるか、または、出来ないままでは困るという本人の危機感)でも起こらないかぎり、中学校に入ってからの勉強はチンプンカンプンになるに違いなかった。

勉強だけに限ってみれば、私が息子を無理やりに机に向かわせて、毎日勉強をみればそれで何とか解決がつく問題とも思われた。けれど、親がいくら頑張ったとしても、息子にその気がなければどうにもならない話だった。それに、中学に入れば部活などもあり、家で過ごすより学校で過ごす時間のほうが長くなるわけだから、私がいくら息子に愛情を注ぎ、息子を認めたところで、それは家庭の中だけのことであって、学校でのいじめや、先生や友だちとの関係においてまで、私が息子の防波堤になることは出来ないことだった。
だとしたら、本人が強くなって、生きていく力をつけていくしかないのだ、と思った。親ができることは限られている。無力だと思い知った。

当時は、「母原病」という言葉も流行っていて、私がこのまま手取り足取りで、息子に関わっていたら、息子をだめにしてしまう、と本気で考えてもいた。そうならないためには、息子を手放すしか方法がないと思った。このままいったら、いじめから不登校にまで発展するかもしれないとも思った。

そこで、ひらめいたのが長野への山村留学だった。息子は小学4年の時、あるNPO(当時はNPOではなかったが)が主催する夏のキャンプに1週間ほど出かけていて、見違えるように生き生きとして帰って来たので、同じNPOが主催する山村留学なら大丈夫かもしれないと思ったのだ。

中学生になったら長野へ山村留学に行ってみないかという私の提案を、息子はいとも簡単に承諾した。親元から1年間離れて暮らすことの本当の意味が、息子にはわかっていなかったからだと思う。
私が息子を山村留学に出そうと思ったのは、どうしても構いすぎてしまう母親の私から離れて、自分の頭で考える子どもになってほしかったからだ。気持ちの建て直しが出来れば、あとはどんなことにでも向かっていけると思ったからだ。

ところが、夫は大反対だった。山村留学には少なからぬ費用がかかるので、「うまくいくかどうかわからないのに、ぜいたくな話だ」というのだ。また、実家の母も反対した。「かわいい息子を1年間もよそにやるなんて、あなたもひどい母親ね」というのだ。
それでも、私はあえて強行することにした。成功するかどうかはわからなかったが、やって後悔するより、やらないで後悔するほうが性に合わなかったからだ。

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落ちこぼれの中学受験 [私の子育て ]

かって、息子が勉強ができなすぎて、私が少なからず悩んだことは前に書いたが、それからどうしたのかを、当時の記憶を掘り起こしながら書いてみたいと思う。

小学5年の終わり頃のことだった。毎日、勉強を見ていても息子の成績は一向に上がらず、母親としての私は出口が見つからずに煮詰まっていた。そんな折に、中学1年が終わりかけていた娘が進学塾に通うことになり(娘の周囲の友だちは中1のはじめから通っていたので、追いつくのが大変だったが)、塾長に息子のことも相談したら中学受験を勧められた。
「出来ない子ほど、早く手を打たないと大変なことになりますよ」という理由からだった。中学受験なら高校で同じ学校に入るよりはるかに入りやすく、偏差値も10程度低くても入れるという。塾長に言われるまでもなく、たとえ私が毎日勉強を見ても、このまま進めば、息子は高校受験も危ないと思っていたから、私は塾長の言葉に乗ることにした。いくら勉強が出来なくても、親としては「せめて、高校だけは」という思いが強かったからだ。

頭の中では、建てたばかりの家のローンと、2人分の塾の月謝をどう捻出するかも重大問題だったが、当時自宅でやっていた私の仕事を増やすことでなんとか乗り切ろうと思った。
それからが大変だった。学校の勉強についていけない息子に、塾の勉強がわかるはずもなく、学校の勉強は教えられても、受験の算数になるとおいそれとは教えられず、息子が学校に行っている間、私は中学受験の参考書と首っ引きで問題と格闘することになった。

息子が帰って来ると、さあ、勉強ということになるのだが、もともと気が乗らない息子に、「今、勉強しておかないと、将来は新宿の公園で寝ているホームレスみたいになちゃうよ」などと脅しながら(今から考えればひどいことを言ったものと思うが)、息子を勉強へと駆り立てていた。
息子は勉強など少しもしたくなかったのだが、しないと私に見捨てられると思って、それが怖くて、2時間でも3時間でも私と一緒に机に向かっていたのだと思う。
息子にかける時間は、当然、私の仕事の時間を奪うことになるから、夜遅くまでかかって仕事をこなすことも多くなった。

そんな毎日が8ヶ月位続いただろうか。私は精神的にも肉体的にもくたくたになっていた。息子とは毎日親子喧嘩が繰り返され(大体は、息子が私の言い方が気に入らないと言って、怒ることから始まるのだが)、その度に息子が私に謝って終わっていたのだが、「謝らなくてもいいから、もっとやる気になってよ。わかるようになってよ」というのが私の本音だった。
秋も深まったある日のこと、やる気もない、教えても教えてもこぼれていくばかりの息子に苛立ち、「もう、お母さんは、あんたのことなんか知らないから」と言って、息子を置き、買い物に出かけてしまった。かなり腹を立てていたので、本当は家計を抑えなければならない時期だったのだが、本当に久し振りに自分の洋服を買って帰って来た。

息子はこたつにすっぽりと入って眠ってしまっていた。見ると、息子の顔には涙のあとがあった。そして、テーブルの上に置かれた一枚の紙切れ。そこに書かれた息子の文字を見て、私は大きな衝撃を受けた。息子の心の痛みが私の心に突き刺さったからだ。

たった一言、「つまらない」と書いてあった。それを見たとき、私はそれが今、息子が置かれている状況のすべてだと思った。このまま、受験勉強を続けていたら、息子はずっと「つまらない」という感情を抱き続けたまま、大人になってしまう。今も、これからも息子の人生をつまらないものにしてはいけないと思った。
翌日、私は塾長に息子を退塾させる旨を伝えに行った。塾長も息子のことはお荷物だったのだろう。あっさりと、それを了承した。

だが、塾をやめたからといって、それで息子の問題が解決したわけではなかった。「自分は何をやってもだめな子なんだ」という息子の気持ちを変えたかったし、何か一つでもいいから自信をもてるものを持ってほしかった。

続きは、また機会を見て書いていきます。
息子のことを書く気になったのは、今、うつ病の母がこの時の息子と同じ状態だからかもしれません。でも、私は息子のときとと同じようには母に接していません。母が「自分はだめな人間なんだ」と思わない日が訪れるのを祈りながら。


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我が子がかわいくない [私の子育て ]

昨日は、「問題をもつ子」ということで、我が子が言うことを聞かなかろうが、出来が悪かろうが、学校に行かなかろうが、「その子はその子でいいのだ」とありのままの我が子を認めることが大切だと書いたが、これはそう簡単なことではない。
私もかなり長い期間、ありのままの子どもを受け止めるという実践を積んできて、それは出来るようになったけど、これはあくまでも仕事であったり、他人の子どもであるから出来ることで、我が子となるとそうはいかない。

たとえば、我が子が不登校になった場合、その子の気持ちをそのまま受け止めて、「行きたくないなら行かないでもいい」と、言い切れる親がどれだけいるだろうか。「他のことはいいから、とにかく学校だけは行ってくれれば」と思ってしまうのが、大部分の親ではないかと思う。
理屈では「その子のありのままを認める」ことが大切なのはわかっているけど、それが出来ないから親は悩むし、苦しむのだと思う。他人のことなら何とでも言えるけど、当事者になったらそう簡単にはいかないのだ。

私は息子が小学校5年生のとき、息子のことをかわいいと思えなくて、「この子がいなかったら、どんなに楽だろう」と、思ったことが何度かあった。担任の先生がすごく厳しくて、「毎日、授業は聞かない。忘れ物はする。一体、お母さんはどんな教育をしているんですかね」と先生に責められ、私は一生懸命、育てているつもりなのに、息子がそうなのは、息子が悪いのであって、私は被害者であるように思ってしまった。
先生がこんなだから、クラスの友だちも、息子のことを認めなくて、いじめもあって、息子はずいぶんつらい思いをした。その時の息子は、「言いたいことがあるなら何とか言え」と夫に怒られても、返す言葉を持たなかった。(弱い立場にある子どもは牙をむき出すことはできても、自分の意見をはっきりいうことなどできなないのだ、と今では思う)大人になってから、息子は当時のことを振り返って、「学校で先生に怒られて、家に帰ったらお父さんとお母さんに怒られて、ぼくは本当につらかった」と言っていた。

ところが、当時の私は、息子のつらさをある程度は理解しながら、自分のほうがつらくて、不安で、息子のことをかわいく思えなくなっていた。「私がこの子のことをかわいいと思えなくて、誰がこの子のことをかわいいと思うだろう」と、そう思う自分を責めて、母親に愛されない息子のことを本当にかわいそうだと思った。煮詰まってしまって、身動きができなくなってしまったのだ。

学校での勉強も、ざるから水がこぼれ落ちるように、息子の頭には何ひとつ入っていかなかった。そこで私は毎日、息子の勉強をみることになった。同じことを繰り返し、繰り返し、何度も教え、わからなくても、覚えなくても、怒らないように努めた。息子のことはかわいくなかったが、見棄てるわけにはいかなかったからだ。
息子の子育ては、大変だったけど、あきらめなかったことが、よかったのかもしれないと、今は思う。
それでも、結局、息子は中学1年で、山村留学に行き、それが転機になって、明るい光が見えてきた。そのきっかけについては、また、折をみて書いていきたいと思う。


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かわいいだけではすまなくなる PART2 [私の子育て ]

かわいいだけではすまなくて、「すること」「できること」を子どもに要求してしまった苦い経験を書いてみたいと思う。

一つ目は、下の子が幼稚園の年長のときのことだった。担任の先生から「○○組で、ひらがなが書けないのは、お宅のお子さんだけです。おウチで少し、練習してください」と非難されて、「すいません」と謝ってしまった。
そして、その日からいやがる息子にひらがなの練習をさせた。いらなくなったカレンダーの裏に「あ」とか「か」とか大きく書いて、その上を歩かせたりもした。少しでも興味をもって、楽しく練習できたらと工夫もしたつもりだった。
「まだ、幼稚園なんだから、ひらがななんてかけなくてもいいじゃない」と内心では思いながら、よその子ができることは、息子にもできてほしいと思ってしまったのだ。
そのためかどうかわからないが、それ以来、息子は勉強嫌いな子になってしまった。

二つ目は、上の娘のこと。はっきりは覚えていないが、小学5年くらいのときのことだったと思う。勉強をやらない娘に対して、「できないことはちっとも悪いことじゃないけど、やればできるのにやろうとしないのがよくないって言っているのよ。お母さんは、そういうの一番嫌いなの!」と、強く叱ったことがあった。
娘は泣きながら、私に抗議をした。「お母さんはがんばれる人だけど、私はお母さんとは違うの。自分ががんばれるからって、お母さんと私を一緒にしないで」と。

私は強いショックを受けた。自分はがんばっているつもりはなかったけど、娘の言っていることは、その通りだっと思った。娘と私は違う人格で、娘を私の色に染めることは、してはいけないんだと思った。
「ごめんね」と、私はすぐに娘に謝った。

そして、子どもが社会人になった今でも、「すること」「できること」を期待しないで、わが子に接するのは、簡単なことではないと思ってます。


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