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息子の山村留学(1) [私の子育て ]

息子の山村留学を決心する前に、たとえ半年余りでも中学受験のための勉強をしたのは悪いことではなかった。同じ学年の子どもが、学校よりもはるかに高いレベルの勉強をしていること、ぼんやりしている自分とは全く違った世界があるということを知っただけでもよかったと思った。

さて、実際に息子を山村留学に送り出したあとの私の生活は信じられないくらい楽になった。寂しさよりも、息子から解き放たれた解放感でいっぱいだった。受験をあきらめても学校の勉強だけは見ていたので、それがなくなっただけでも随分と気持ちが軽くなった。山村留学は息子のためというより、私自身が楽をしたくて、それで息子を長野くんだりまで送り出したのではないかと、母親としての自分を疑ってみるほどだった。

しかし、楽なことばかりではなかった。まず、大変になったのは家計だった。新築して間もない家のローンに加えて、山村留学先に係わる費用が家計を圧迫せずにはおかなかったからだ。最初から、毎月の山村留学先に払う費用は覚悟していたのだが、行事があるごとに出かけて行く私の往復の交通費や、息子が用件や泣き言でかけてくるコレクトコールの電話代は想定外のものだった。

そして、息子と別れて1週間も経たないうちに、中学の入学式を迎えた。片道でも5~6時間はかかるので、前の日から出かけて、その晩は息子の部屋に泊まり、翌朝の入学式に参列した。

留学先(宿舎)から中学校までは山道を歩いて30分ほどの道のりで、学校は深い谷を望む山間にあった。
校門のところには、緑の中でそこだけ一際くっきりと青空の下、桜の花が咲いていた。

よくは覚えていないが新1年生は11人で、そのうち4人は息子と同じ山村留学の子どもたちだった。
「過去は問わない」と、息子の担任の先生は言った。
私はうれしかった。

この、のどかで、伸びやかな山の学校で、息子がこれまでの自分と決別して、新しい空気をいっぱいに吸って過ごしてくれたら、それだけでもいいと思った。
とにかく、1年間、私と離れて暮らすことができれば、それだけでも息子のことをほめてやりたいと思った。

宿舎には子どもたちと生活を共にする大人が4人いて、それぞれが愛称で呼ばれていた。元保育園の先生だった女性のSさん、大学を卒業したばかりの男性のMさんとIさん、それに美大出の陶芸家のGさんだった。

この4人の大人たちは、普通の母親が口にするような小言や指図は一切しなかった。
必要な生活の段取りは子どもたちが相談して決め、それぞれの役割を果たすことになっていたからだ。

食事の支度、後片付け、掃除、洗濯、薪割り、風呂炊き、飼っている動物の世話など、すべて子どもたちの仕事だった。
だから、ある子どもが遊びに熱中したり、怠けたりしたりして、食事の支度をしなかったりすると、9時になっても10時になっても夕食にありつけないということも出てくる。
それでも、Sさんは「早くしなさい」とは言わずに、黙ってみていた。

Sさんの、この黙って見守る姿勢には、私は行くたびに感心させられていた。あわてず、さわがず、ゆったりと構えて、子どもを信頼して待っているという感じだ。
ここでは、Sさんが子どもたちのお母さん役だったが、私とは違うタイプのもう1人のお母さんが息子にもできて、よかったなと思った。

夜になって、子どもたちが1部屋2~3人の部屋で眠りにつくと、Sさんたち大人は、何時間もかけて子どもたちについてのミーティングを行う。
子どもたちに、自分たちの頭を使って、自分たちの生活を築いていくにはどうしたらよいかを考えさせるために、いろいろと意見を出しあい、相談しながら翌日の生活を詰めていくためだ。

入学式が終って、私が東京に帰るときに、息子はどういう反応を示すかと思っていたが、この時も、私に向かって、「バイ、バイ」とあっさり手を振るだけだった。
私は安心しながらも、一方では物足りなさも味わっていた。

ところが、「もう、ここにはいたくない。家に帰りたい」と息子が泣きながら電話してきたのは、それから間もなくのことだった。


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