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息子の山村留学(3) [私の子育て ]

翌朝になると雪はすっかりやんでいて、光り輝く銀世界の中で見たダイダラボッチとその周辺の風景は雄大で、言葉では表せないほどすばらしかった。それを見た夫は、「この自然の中で1年間暮らすだけでも、雄一にとってはいいことかもしれないな」と言ってくれて、張り詰めていた私の気持ちも軽くなった。

山村留学のパンフレットには、持って来てはいけないものが1つだけ明記されていて、そこには「親の期待」と書かれていた。にもかかわらず、私は雄一が1年間で大いに変わることを期待していたのだが、そんな気持ちは跡形もなく消え、夫と同じ気持ちになっていた。

ダイダラボッチの建物と、どんな子どもで受け入れてくれそうなKと温かい相談員たちと、山と川のある泰阜の自然の中で暮らすこと、それだけで十分だと思った。そして、知り合ったばかりの子どもたちと一緒になって、ダイダラボッチの広い庭に記念樹を植える雄一は、いつになく輝いていた。自然が不思議に似合う子だった。

村役場で転入手続きをすませ、雄一が入学する泰阜南中学校に出向き、村人への挨拶回りも終った3日目、いよいよ雄一を置いて帰る日が来た。夫は仕事の関係で前の日に帰っていて私だけが残っていたのだが、最寄り駅まで私を見送った雄一は、予想に反して心細そうな様子を見せなかった。

飯田線に乗り、1人になった私は初めて涙を流した。
「なぜ、こんなにつらい思いをして、雄一と離れ離れに暮らさなければならないのだろう」
私はかなり感傷的になっていた。私が後押しして実現した山村留学なのに、早くもそれを後悔する気持ちすら生まれていた。

それでももう引き返すことはできないと思い、それまで雄一と過ごした日々に思いを馳せながら、心の中で雄一に語りかけていた。

小学校入学から今日までの6年間、あまりの出来の悪さに、ついつい嫌いな勉強を押しつけてきてしまった。けれど、もっと大切なものがあるといつも思っていた。親や先生や周囲の大人たちから言われなくても、自分から何かしたいという躍動する気持をもってほしいと願っていた。

幼稚園段階から、先生に自宅でひらがなの勉強を見てやってくださいと言われ、小学校の高学年になると母親である私への先生からの要求はさらに強くなって、私もそれなりの努力はしてきたつもりだった。

けれど、そんな私と勉強嫌いの雄一とはかみ合わないまま今日まできてしまった。雄一は常に私の言葉を「うるさい」と反発して聞かないだけでなく、耳に蓋をしてしまって入っていかないようだった。

今後は他人の中で生活をするのだからそうはいかないだろうと思った。人の話はよく聞いて、自分の意見や気持ちもきちんと伝えて、他人と心を通わせていかなければやっていけないだろう、と思った。

それは雄一にとってはやさしいことでないと思うけど、とても大切なことだからね。
お母さんも東京で、雄一に負けないようにがんばるからね。雄一もしっかりやろうね。遠くにいても雄一のこと、見守っているからね。

東京に戻ってから6日目、私は再び、ダイダラボッチに向かった。泰阜南中学校での雄一の入学式に出席するためだった。
山間に建つ木造校舎の中学校は、ダイダラボッチに似たのどかな佇まいで、学校までは歩いて30分の道のりだった。
新1年生は山村留学組4名を合わせた9名で、全校生徒34名という小さな学校だった。

「過去は問わない」と担任のT先生は言った。
小学5、6年の担任の先生は雄一の短所ばかりを数え上げる先生で、注意される度に私もめげていたのだが(今なら、こういうタイプの先生はよくない先生だと判断して、適当に聞き流すこともできただろうが)、T先生ならきっと雄一の長所も見てくれるだろうと期待できた。

雄一には、厳しく怒ったり、短所を指摘して改めさようとする先生より、長所を認めて伸ばしてくれる先生の方がいいことは確かだった。そうでないと、離れて暮らす親子にとってはきつすぎると思った。

入学式当日もその翌日も、朝6時に起床し、その週の自分の分担だったトイレ掃除をきちんと実行していた。家にいたときには7時半まで寝ていたことが信じられないような変わりぶりだった。

1泊して、私が東京に帰る別れ際、同じ留学生の父親の車に便乗させてもらい出発する私を、雄一が追いかけながら見送った。
「お母さん、ぼく、大丈夫だから!」
雄一は、私に向かってそう叫んでいた。

5月末、雄一が2ヶ月振りに我が家に戻って来た。雄一がいないことでめそめそしないことを自分に課していた私だったが、帰宅の報告を受けた時点から、たまらなく雄一に会いたいと思った。夫はそれ以前の連休にダイダラボッチに行き、他の父兄と共に母屋の玄関造りの作業に参加し、雄一とは会ってきたばかりだった。

それまでの間、私は家の様子や、友だちのこと、注意することなどを手紙に書き、せっせと雄一宛てに送っていた。雄一からも、声変わりしたこと、毎日の仕事が多くてヘトへとになることなどを報告する手紙が届いてはいたが、コレクトコールの電話のほうがはるかに多く、それがまた、親子の大切な接触手段にもなっていた。その時期、我が家の電話代は、一挙に2倍以上にも跳ね上がっていたのだが……。


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