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息子の山村留学(2) [私の子育て ]

息子の山村留学を今年の1月に書き始めたのですが、一昔前のことでもあり、思い出しながら書くのもどんなものかと思っていたのですが、当時のことを記録した文章が出てきたので、それをそのまま写して最初から書き直すことにしました。

息子の山村留学(2)

小学校の卒業式翌日の3月26日、私と夫と息子の雄一は、夫が手配してくれたワゴン車にタンス、布団、衣類等の生活用品を満載して、山村留学先の長野県下伊那郡泰阜村に向かった。

目的地までの行程は困難を極め、中央高速に入ってすぐに雪で車は渋滞、昼の12時に自宅を出て、飯田に着いたのは午後11時だった。飯田から泰阜村までは車で1時間の距離と聞いていたのだが、午後7時から始まる一同顔合わせのミーティグに大幅に遅刻することは決定的になってしまった。

雪は断続的に降り続き、辺りの木々もすっかり雪化粧。そんな中で私たちは道に迷ってしまった。ガソリンは残り少なくなり、高速を降りてからの道は標識もなくて地図は頼りにならずに、深い山の中で人家も見当たらないという悪条件も重なっていた。山村留学に最後まで消極的だった夫は苛立ちを見せ、雄一に当たった。

やっとのことで人家の灯りを見つけたのは、午前零時を回った頃だった。そこが偶然、泰阜村の中学の先生の自宅で、ダイダラボッチ(民話が伝える、山と川を造ったこころやさしい大男のことで、山村留学先の愛称)に迎えに来るように電話をかけてくれた。

迎えが来るまでの間、コタツに入れてもらい、お茶をご馳走になったが、見知らぬ他人の親切がうれしかった。まして、それから雄一が生活する村だと思うとなおさらだった。
ダイダアラボッチ到着は午前1時だった。通常なら車で5~6時間の場所だが、12時間もかかったことになる。

夫も私もそこに足を踏み入れた瞬間、初めて見るダイダラボッチの建物に強く心を惹かれた。柱はNTTの古電柱、腰高に積む壁材は旧国鉄の古枕木、製材約400本はヒノキの間伐材を村の製材所から、床板と100枚を超える窓ガラスは近くの分校から譲り受けたもの、というように全て寄せ集めの材料を使った建物だった。

それらの廃材を使い、家を建てたのはダイダラボッチの大人と子どもたちで、それに協力したのがボランテイアの学生と村の人たちということだった。

48畳(古畳)ぶち抜きの大広間、8畳の居室7つ、ゆったりした土間の台所と食堂など、見た目は決してきれいとはいえなかったが、木のぬくもりとその家にかけた人々の熱い思いが感じられる建物だった。その母屋を出たところに、風呂場と建築中の工房および図書館があった。

その年の子どもたちは、小学1年から中学2年生までの男女合わせて19人で、それぞれがダイダラボッチから村の小学校、中学校に通うことになっていた。子どもたちと生活を共にする大人は、ダイダラボッチ所長で元幼稚園教諭のK、相談員と呼ばれる、大学を卒業したばかりの好青年のMとS、美大出身のGの4人で、それぞれが愛称で呼ばれていた。

夜もすっかり更けていたが、ダイダラボッチの創始者で野外教育センターの所長の I と K、相談員たちと19人の子どもの親たち、それに前年度の親たちも加わって白熱したミーティングが行われていて、私と夫もその一員に加わった。

現在の子どもたちを取り囲む環境や、偏差値に振り回される教育体制についての活発な意見が飛び交い、それらに対する親たちの疑問や反発が、子どもを山村留学に送り出す動機となっているようだった。子どもに対する親の真剣な気持ちが伝わってくるその有意義なミーティングは、そして明け方まで続いた。

現在は少し違うようだが、当時のダイダラボッチの山村留学が他の山村留学と一線を画しているのは、村および教育委員会等の行政機関の援助を一切受けてないことだった。援助を受ければ運営も楽になり、親たちの経済的負担も軽くなるが、行政の管理下に置かれたのでは、子どもの自由な発想や活動の妨げになるという、子どもの側に立った考え方が反映されてのことだった。


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