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中学受験から山村留学へ [私の子育て ]

中学受験を断念した(もともと、無理な話だったと母親である私が気づいただけの話なのだが)からといって、それで息子の問題が解決したわけではなかった。息子は、先生からも友だちからも、「どうにもならない、だめな子」というレッテルを貼られたまま、地元の中学校に進むことになるからだ。そのレッテルは、息子自身の自己肯定感を弱め、その先の息子の人生を暗くすることは容易に察しがついた。また、小学校の段階で落ちこぼれてしまったら、本人に余程の心境の変化(やる気になるか、または、出来ないままでは困るという本人の危機感)でも起こらないかぎり、中学校に入ってからの勉強はチンプンカンプンになるに違いなかった。

勉強だけに限ってみれば、私が息子を無理やりに机に向かわせて、毎日勉強をみればそれで何とか解決がつく問題とも思われた。けれど、親がいくら頑張ったとしても、息子にその気がなければどうにもならない話だった。それに、中学に入れば部活などもあり、家で過ごすより学校で過ごす時間のほうが長くなるわけだから、私がいくら息子に愛情を注ぎ、息子を認めたところで、それは家庭の中だけのことであって、学校でのいじめや、先生や友だちとの関係においてまで、私が息子の防波堤になることは出来ないことだった。
だとしたら、本人が強くなって、生きていく力をつけていくしかないのだ、と思った。親ができることは限られている。無力だと思い知った。

当時は、「母原病」という言葉も流行っていて、私がこのまま手取り足取りで、息子に関わっていたら、息子をだめにしてしまう、と本気で考えてもいた。そうならないためには、息子を手放すしか方法がないと思った。このままいったら、いじめから不登校にまで発展するかもしれないとも思った。

そこで、ひらめいたのが長野への山村留学だった。息子は小学4年の時、あるNPO(当時はNPOではなかったが)が主催する夏のキャンプに1週間ほど出かけていて、見違えるように生き生きとして帰って来たので、同じNPOが主催する山村留学なら大丈夫かもしれないと思ったのだ。

中学生になったら長野へ山村留学に行ってみないかという私の提案を、息子はいとも簡単に承諾した。親元から1年間離れて暮らすことの本当の意味が、息子にはわかっていなかったからだと思う。
私が息子を山村留学に出そうと思ったのは、どうしても構いすぎてしまう母親の私から離れて、自分の頭で考える子どもになってほしかったからだ。気持ちの建て直しが出来れば、あとはどんなことにでも向かっていけると思ったからだ。

ところが、夫は大反対だった。山村留学には少なからぬ費用がかかるので、「うまくいくかどうかわからないのに、ぜいたくな話だ」というのだ。また、実家の母も反対した。「かわいい息子を1年間もよそにやるなんて、あなたもひどい母親ね」というのだ。
それでも、私はあえて強行することにした。成功するかどうかはわからなかったが、やって後悔するより、やらないで後悔するほうが性に合わなかったからだ。

昭和63年、3月、雪の降りしきる中、息子と私は、夫の運転する車で長野に向かった。雪のため、長野に入ってからは渋滞で車が全く進まず、道にも迷ってしまって、15,6時間かかって、現地に着いたのは夜中の12時を回っていた。
夫はその間、ずっとイライラのしどおしで機嫌が悪かったが、そこに着いた途端、ウソのように気持ちが変ってしまった。

第一は、宿舎の建物だった。その建物は廃材を利用して、職員と山村留学1期目の親と子どもたち、それに村の人たちに手伝ってもらって建てた手作りの家だった。天井の高い大きな大きな屋根の家で、むき出しの柱や、寄せ集めの古い畳や障子もなんともいえぬぬくもりを感じさせた。
第二は、素朴で、温かく、人柄のよさが顔に出ている若い職員たちの姿だった。息子は疲れて寝てしまったが、私と夫は、職員や他のお父さん、お母さんたち20人ほどの輪の中に入れてもらいながら、お酒を飲みながら夜を徹して話し合い、長いゆったりした時間を過ごした。

翌日は、あれほど降っていた雪もやみ快晴。
表に出ると一面の銀世界だった。周囲は山、また山で、ちょっと下ればそこは天竜川。そして、宿舎の庭は東京の学校の校庭くらいあり、朝になって改めて見た宿舎はさらにどっしりしていて、頼りがいがあった。
私の中で、「ここで1年間過ごせば、息子は大丈夫」と確信のようなものが生まれていた。それは夫も感じたらしかった。

いよいよ、息子との別れの時が来た。息子は「バイバイ」と気楽に手を振っていたが、私はやはりつらかった。それでも、不思議なくらい気持ちは明るかった。


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えみりん

山村留学については うちも 次女(来年小学校5年生)・・・自分なりに工夫したり考えながら 生きていこうとする力が乏しい、姉妹間で気遣いしすぎている面がずっと 心にひっかかっていて・・・1年間どうかな~と検討しているところです。息子さんはその後いかがですか?どういう学校か教えていただけませんか?
by えみりん (2005-12-22 13:42) 

ちいとと

えみりんさんのご質問にお答えします。

「もし、あのときに山村留学に行っていなかったら、自分はどうなっていたかわからない」と、息子は言っています。そして、えみりんさんにお答えするに当たり、改めて「山村留学して、何がよかったと思う」と尋ねたところ、「あそこで、人になれた気がする」と言っていました。よくわかりませんが、多分、息子はそこで、ありのままの自分を認めてもらえたからだと思います。

ただ誰にでも向くかというと疑問が残ります。都会が好きな子どもには、まず向かないと思います。また、毎日の生活(息子が行った当時は食事を作ったり、風呂を沸かしたり、掃除をするのも子どもたちの仕事でした)を重視するので勉強は二の次になって、帰って来た時にちょっと大変な思いをします。物事を何でも合理的に考えるご両親の子どもも無理だと思います。
息子が行った当時は、今の世の中の価値観や、教育に疑問を感じている家庭の子どもが多いように感じました。

これから、息子の山村留学生活については、何回かに分けて書いていきたいと思いますので、場所等についてお知りになりたいのでしたら、何らかの方法で個人的にお答えできたらと思います。
お教えするのはよいのですが、いろいろ書いているので、私のことが特定されてしまうと、ちょっとはずかしいかな、という気もするので……。
by ちいとと (2005-12-24 00:50) 

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